4.ボサール・トリオ盤は1975年の演奏である。エマーソン盤でピアノを弾いていたプレスラーの20年前の録音ということになる。最初に分類した「ピアノを含む常設の室内楽団+弦楽奏者の助っ人」スタイルの編成の典型。

 日本では現在フィリップスの2枚組廉価版のDUOシリーズで、ピアノ四重奏曲Op.47とピアノ三重奏曲1〜3番と抱き合わせで出ているが、本国のDUOシリーズは内容が異なり、ピアノ三重奏曲集にシューマンの室内楽小品集が抱き合わされ、寧ろピアノ五重奏とピアノ四重奏の方が独立した一枚として出ている。日本版のDUOシリーズの2枚で2900円を取るか、外盤1枚2000円前後を取るかということになるが、ボザール・トリオのシューマンの室内楽を重複なしに外盤でそろえようとする人以外は、ピアノ三重奏曲集もなかなかいい方の演奏なので、国内盤の方をおすすめしたい。ただしこのような企画の常として、ピアノ三重奏曲第3番が2枚にまたがって収録という不便な形にはなっている。

 実は過去の経験から、ボサール・トリオは今一つ物足りないという印象が定着していたので、今回も全然期待しなかったのだが、結果は正反対だった。恐らくこの曲のファーストチョイスとしてはこの演奏が一番素直に曲の姿を伝えてくれるので一番適切なのではないか。

 演奏はきわめて徹底的に引き込まれた実に洗練されたもの。集中力も高い。しかも70年代の米国の演奏のいい面を伝えていて、非常にストレートな勢いがある。十分なメリハリと切れ味、それでいてギスギスしたところが皆無で腹にもたれず、ここぞと言うところでは細やかな柔らかな響きを立てる。もとよりハーゲン盤のような意味での研ぎ澄まされた繊細さというのとは違い、どこまでも陽性の響きだが、フィリップスのあの歳をとらない木質の透明度の高い録音もあいまって、何とも「みずみずしい」としかいいようのない、繰り返し聴いても決して飽きない演奏である。

 アメリカの他の団体のこの曲の演奏とは何か基本的な響きの質が違う。ブダペストは言うに及ばずラサールですらとてもここまでスッキリした洗練された音色にはなっていないのではないか。もとより「この演奏には毒がない」という人は出てくるかも。しかし毒々しいのなら他にいっぱいあることだし。

 この曲はピアニストと弦楽四重奏団がとことん張り合う形になって、スリリングではあるけれどものの妙に疲れる演奏になりやすいのだが、普段から室内楽のトリオを組んでいる人間中心の演奏の有利さが見事に出ていると言うべきだろう。あくまでも5つの楽器が解け合う形でひとつになって全体を作り上げているのである。こういう「オーソドックス」があってはじめて、ハーゲンアルヘリチのような、殆ど未来的な研ぎ澄まされた演奏の、見かけの特徴のみにとらわれない真の可能性を評価できるのではないかと思う。

 エマーソン盤に比べると全体が淡泊で直球勝負と感じる人もあるかもしれないが、私からするとエマーソンの演奏は少しアメリカの聴衆向けに口当たりよく弾き過ぎているのでないかとも思うし、私の経験から言うと、エマーソンの音は、装置によっては必ずしも美しくは響かない面がある気がする。だが、よほど変な装置でない限り、この頃のフィリップスの録音は実に快適な音色に響くはずである。「壮年期」の演奏の良さというものは確かにあるのだ。CD一覧に戻る

    

5.ゼルキン/ブダペスト盤は、この曲を私が好きになるきっかけを作ってくれた演奏。永らくエアチェックテープを大事にした後で、CDプレーヤーを買ったごく初期に買ったCD。録音は1963年だが、何しろCD化そのものは1982年制作のもの。今や中古屋でないと見られない、米CBS(ソニークラシカルに非ず!)の、肌色と黒だけのジャケットに、「エヴァンゲリオン」のアイキャッチみたいにごたごたとどでかく演奏者名を書き込んだ、いかにもアメリカ臭いデザインの「グレート・パフォーマンシズ」シリーズというと、メジャー会社の廉価盤の走りのひとつなので覚えておられる方もあるかもしれない。当然現在は番号もカップリングも変わっている。音も良くなっていると信じたい(笑)。全音楽の中で私が一番繰り返し聴いたCDのひとつ。おかげでCDケースは傷とひびだらけ、初来日時のホロヴィッツ……じゃない、「ひび割れた骨董品」の極致になっている。これを機会にケースを変えてやるか。

 はっきり言ってこの当時のブダペストやジュリアードの録音はあまり録音がいいとはいいづらいです。これでモノラルで針音があればSPだと言いたくなるくらいに、妙に硬くて線が細い音。細やかな柔らかみというのは期待できない。2,3枚最近別の曲の演奏の再発盤を聴いた結果では、いくらか細やかにはなって、SPとまでいう気はもはやないけれども、やはり固くて線の細い音には変わりがなく、本質的な改善まではできなかったようである。しかし、演奏者が床をきしませる超低音とおぼしき音(最初ステレオの音がうるさくて二階から文句が来てるのかと思った)は入っているのに、スピーカーをタンノイ・スターリングにしてからはじめて気づいたので、帯域が本当に狭いというのとは違うのかも。

 しかしこの演奏、この曲の秘めたギラギラとした熱気とロマンを伝えるパワフルで豪放そのものの「精力的な」演奏としては、現在もこれを越えるものはないかもしれない。もっと技巧的に凄いとか派手な音がするのはあるけど。

 恐らく新即物主義の系譜を引くとはこういうのを言うのだろう、ブダペストとゼルキンの音はお世辞にも美音ではない。しかし、何とも積極的な表現意欲、無骨で小回りは利かないけれども、tightで筋肉質で奔放なリズム感、そして第1楽章第2主題のヴィオラとチェロの対話に代表される、引き締まってはいるがロマンあふれる心からの歌もある。

 第2楽章の決してべとつかないけれども沈んだくすんだ表情もすばらしい。私が例の全楽器一斉に繰り返される八分休符の間合いの部分で「覗き込むと沈黙の背後に底知れない鬱がある」という印象を持ったのは何よりこの演奏である。フィナーレの冒頭、弦楽器が「ジャッ!」と一撃を食らわしてから、ゼルキンのピアノが奔放に歌い始めたのをはじめて聴いたときの妙な衝撃は今も忘れられない。

 正直に言って最初に繰り返し聴いたのがこの演奏でなければ私はこの曲にここまで惚れ込まなかった可能性はある。その意味ではこの演奏について私が理性的に発言していない可能性が高いことはおことわりしておきたい。

 ……それでもやはりいうぞ。こんな「生き物のような演奏」、最近そんなには聴けない。大音量で聴いたらかなり疲れますが。

 カップリングはゼルキンのピアノでオーマンディ/フィラデルフィアがバックのピアノ協奏曲。これも無骨かもしれないけど豪放そのもののエネルギッシュな快演です……といっても現在はカップリングが別なはず。CD一覧に戻る

   

6.引き続いて私の思い入れだけで走らせていただきます。

 エラート版シューマン室内楽全集! 私が学部学生時代に金もないのに無謀にも手を出した、私が所有する一番大きなセットものLPである。ちゃんとFMで放送されたほぼ全曲を聴いて気に入った上で買ったのだが、何しろその放送で聴くまでピアノ五重奏曲とピアノ三重奏曲第1番しか聴いていなかったのだから、やはり、これはシューマンとなると危ない橋を平気で渡る私の業のなせる技であった。

 CD化をまだかまだかと待ち望み、7年前、限定発売されたとたんに購入した。私は普段はLPからCDへの買い換えを2,3年前までそんなに焦らなかった人間である。ましてや現在ほどCDが安くない当時、わずか2,3年でセットものを買い直すというのは! ……まあ、この程度のことはアニメファンがLD全集を買うときのすさまじさとは比較にならないでしょうが。何しろ私は今や「エヴァ」のLDすら買う余裕がない!(などと、このコーナーはクラシック音楽だけの関心で読みに来る皆さまもいるのだぞ)

 先年亡くなった、ジャン・ユボーという、いわばフランスのプレスラーというべき室内楽ピアノの神様が、私は聴いていないが大評判をとったらしい、フォーレ室内楽全集に引き続いて、ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団をはじめとする一党を率いて完成させた、「ほぼ完全な」純おフランス製全集である。

 「ほぼ完全な」というのは、バイオリンソナタ第3番、F.A.Eソナタの第2楽章以外、そして今回紹介したピアノ四重奏曲の初期のハ短調の方、2台のピアノ、2台のチェロ、ホルンのための「アンダンテと変奏曲」の4曲が欠けているからである。もとよりこの内のいくつかは録音当時未出版だったので仕方がないが。

 個々の演奏を取り出して見れば現在はもっといいものはいくつもあるかもしれない。しかし、アナログ末期のエラートのあの透明度の高いしなやかな音で演奏された、伸びやかでみずみずしいこの全集の持つ意味は現在も失われていないだろう。何しろ現在でもシューマンの室内楽全集はこれだけである。個々の曲は日本でも何回も分売されている。

 ともかくピアノ五重奏曲の演奏が気に入らなければ私がこの全集に手を出すわけがなかったわけである。これだけこの曲をさわやかにかつ奔放に演奏した例は他にはない。第3楽章フィナーレに至っては前述のゼルキン/ブダペストよりも更に快速。疾風のような演奏なのに、録音のせいもあるのだろうが、荒いという印象は与えない。扇風機にあたるかのような心地よさ。もっとこの曲を精緻にやろうとする演奏はいくらでもあるが、このようなノリノリの演奏が他方で出てこないでどうなるの! と私は思うのだ。しかしそれにしても、交響曲を別にするとフランス人のシューマンはどのシャンルでも失敗率が極めて低い。CD一覧に戻る

   

7.最初聴いたときは何とも何ともいい印象だったのに順位確定が予想外に難航したのが、現在の室内楽の王者、アルバン・ベルク四重奏団アントルモンのピアノで入れた85年のカーネギーホールでのテレビ番組のためのライブ録音である。

 この演奏、比較的最近になって、ドヴォルジャークのピアノ五重奏曲のブフビンダーのピアノでの新録音が出た時に新しいカップリングで復活した。もともとは確かモーツァルトの「不協和音」とのカップリングで出ていたが、以前FMで聴いた記憶でいうと、このモーツァルトの方の演奏は、スタジオ録音に比べるとかなり荒さを感じたように記憶する。私の記憶に間違いがなければ、最初にCDが出たときは、第3楽章終了後に興奮した(曲を知らない?)聴衆から思わず始まった拍手も収録されていて、それが宣伝の売り物だったと記憶する。実は当初の発売盤は聴いていないのだが、仮にその拍手も収録されていたとするならば、今回の再発ではその部分はカットされているようだ。しかし、何かフィナーレの開始の部分だけわずかに演奏の集中力の散漫さが見られる気がするので、この直前に拍手があったのだろう。

 この後で詳しく愚痴を述べる箇所があるが、私は弦楽四重奏のCDを自分の装置で綺麗に鳴らすことについ2,3年前まで苦悩していた。そうした中でも特に苦悩の的だったのが、エマーソンと、このアルバン・ベルクだったのである。

 多くの方がご存じのように、この団体の音は、ブダペスト、ジュリアード、ラサールと続いたアメリカの近代的な機能的弦楽四重奏団の系譜とヴィーン伝統の演奏スタイルの融合したところに、他の団体とは異次元の独特の味わいが開花した。第1バイオリンのピヒラーの音色にはヴィーン風の琥惑的な音色があると同時に、他の団体に見られないくらいのタイトなエネルギー感が両立している。この「色気があって同時に強靱そのもの」という音色の質は、恐らく普通の演奏よりも強烈に倍音成分の効果に依存するところが出てくるのであり、これが調整の良くない装置ではCDでは一種の堅さや高域のにじみ、ぎらつきとして感じられることが少なくないのではないかと思う。

 この団体の、ただでさえ音がうるさいバルトークのCD相手に装置の調整と格闘した日々があった! うまく調整すると、彼らのバルトークは繊細であると同時にダイナミックレンジが極限に広い名演だと思えるようになったわけですが。

 このシューマンの演奏は85年のものである。ホールの違いを考慮に入れても、カップリングの93年のドヴォルジャークの方が、シューマンの場合にある、何か天井から押さえつけられるような圧迫感がなく、実にのびやかに上に風が抜けていく「しなやかさ」がある録音。そのドヴォルジャークの際の録音と比べてしまうと、そして、他方でハーゲン盤のように圧倒的に繊細な録音と演奏が可能という現実と比較させられると、この演奏の位置づけが難しくなるのだ。

 たしかにこの演奏、録音が硬いのです。それをアルバン・ベルクの極度にソリッドな奏法の質が更に強化する。私よりも優秀な装置だとそんなこともないのかもしれませんが、ともかく音量を上げるとこれほど疲れる演奏はないのでした。それに加えて、ハーゲンあたりの方がすでにアルハン・ベルクのスタイルをコンヴェンショナルと感じさせるくらいに、音色面でも解釈面面でも新鮮なことをはじめている。

 もとよりライヴでこの曲をこれだけ演奏できる、しかもこのような緊張度の高い演奏スタイルで成し遂げるというのは空前のこととは思います。アントルモンのピアノに注文を付ける人がこの演奏にはあるようですが、私はそんなには気にならなかったです。ややこれはチャイコフスキーあたり向けの音色でないかとも思いましたが、アルバン・ベルクの張力の強い演奏スタイルからすればこのくらいばりばりやるのでちょうどいいかと思います。

 拍手が出たという第3楽章でホンの少しだけ少しだけヨレている部分があるみたいですが。あと、すでに述べた、フィナーレ冒頭の集中力を失っているかに思える部分。これはすぐに気にならなくなりますが。

 バイオリンやチェロの響きにしばしばあの媚薬的なトーンを感じられるのもうれしい。全体としては実にどっしりとした、ひとつの様式の極限に近い演奏スタイルでしょう。アルハン・ベルクのライブ中継とかで私が時折感じる、「せかせかしすぎる」感じもここではなくて、寧ろ何とも堂々とじっくりやっていますし。音色の強靱さは、エマーソンを中途半端としか感じさせないだけのものがあるし。

 ただ、ドヴォルジャークの方の、都会的ではあるけれども何ともはや自由闊達なのびのびした演奏を聴いたとき、単に録音のせいばかりではなくて、完成度ではシューマンの方がやはり低いのではないか、現在録音したらシューマンはもっとしなやかに自由闊達に演奏できるのではという気もし始めました。基本的には、このシンフォニックな曲は、何ともアルバン・ベルク向けという気はしていますので、また入れて欲しいと思います。

 それにしてもこの団体はシューマンの弦楽四重奏曲をどのように見ているのだろう?CD一覧に戻る

    

8.エマーソン弦楽四重奏団盤は、すでに述べたように、40年にわたってアメリカの室内楽の世界に君臨してきた室内楽ピアノの大御所、ボザール・トリオメナヘム・プレスラーをフィリップスから借り受けて胸を借りている演奏である。

 この演奏は、20年前になされたボザール・トリオ中心の演奏との比較論もできるし、同時期に発売されたハーゲン弦楽四重奏団盤との比較論もおもしろいことはすでに述べたとおりである。

 パウル・グルダ/ハーゲン盤のところで、私はこのエマーソン四重奏団の演奏のことを「コンベンショナルな演奏」と評した。これは別に否定的なニュアンスではない。最近の演奏で、この演奏ぐらい、誰をも満足させる可能性がある、「安心して聴ける」演奏はない。バルトーク全集も評価されるエマーソンの弦の音色は近代的なものではあるのだが、今回はいつになくふくよかにのびのびと余裕を持って鳴っている気がする。第一印象は、きわめてよいものだった。

 もっとも、以前から、私の機械とエマーソンの弦の音色は大変相性が悪くて、タンノイ/ラックスというコンべンショナルな(笑)わたしの装置は、よほど機嫌がいい時(これを書いている最中は最良。もう四日もアンプ付いたままだもんな)のを別すると、どうしても弦の高域が汚くきこえてしまう。(ちなみにパソコンとの電源回路分離やパソコン側の相互接続や電源や電話回線にラインノイズフィルターをたっぷり入れるとか、必要なことはみんなやってます)

 ラックスの真空管ハイブリッドアンプとタンノイという古風な機構のスピーカー、両方の相乗効果もあってか(CDプレーヤーはTEACのスタピライザー機構つきの奴、電源・接続コードはオルトフォンとアクロテックの8N・7N系)、わたしの装置は時と場合によって驚くぐらいに音色が変化してしまう。おかげでこの「ロベルトの部屋」を書くときも機械が調子がいい時といまひとつの時、最低二回は聴かないと、演奏の印象をまるで別の物として捉えてしまう危険があるのを承知している。

 だが、最近、このエマーソンの弦がなかなか綺麗に鳴らないというのは、ひょっとしたらわたしの装置や録音(このエマーソン盤も4D録音である)のせいだけではなくて、エマーソンの弦の音色そのものに起因するのではないかと考えはじめている。それは、ミンツの演奏が透明そうでいて今一つ綺麗になってくれないのと何か似ている。楽器や奏法の問題と絡む何かなのだ。

 それこそ普段演奏会に行かない「レコード芸術」人間の笑い話だが、CDプレーヤーをはじめて買って以来、その調整に一番格闘してきたのは、「弦楽四重奏をどうすれば快適な音で聴けるか」だったのである。どうも高域がデジタルノイズ臭くて、とてもこれでは安らかに曲を楽しむ心境になれない。他の人の家の装置でその私の嫌な音色が完全に放置されているのが気になって仕方なかったが、かなり年上のご本人がそれ(アルハン・ベルクQのモーツァルト)を満足げに聴かせてくれるのだから言い出せなかったことがある。この「弦が汚く響く」点で一番格闘したのは、アルハン・ベルクとエマーソンのCD相手だった。

 改良に改良を重ね、現在では一番状態が悪くても以前のような聴くに耐えない音は決してしなくなったのだが(最後にはかのシェフィールドのエージングのための「バーン・インCD(10041-2-T)」が決め手となった。これはスピーカーの音を劇的にクリーンなものにする場合があります。全帯域を鳴らし込んではじめてスピーカーの機構がほぐれるというのは事実のようだ)、実は、二年ほど前、招待券をもらって久々に東京文化会館に某有名弦楽四重奏団を聴きにいった。そしたら、何と目の前のその弦楽四重奏団から、私の大嫌いな「デジタル・ノイズ」だと思っていたものナマで盛大にきこえてくるのである! 装置は正直だったのだ!

 ……もちろんすべての四重奏団がそういう音を出すとは限らないかもしれない。しかし、私はその時以来、CDプレーヤーはアナログより音が悪いという俗説を退けるようになった。要するにLP時代のRIAA曲線の録音の音色のクセになじんだ人間が、それを「美しい音」として捉えるように条件づけられていただけなのかもしれない。

 某誌によると、最近はわざとRIAA特性で作られたCDをアンプのフォノイコライザーを通して聴く(もちろん「抵抗」を自作する必要がある)ということすら一部で始まっているらしい。もとより、以前から実演でもきこえていたはずの音が気になるということは、やはりその種の演奏ノイズをさらに誇張して聴かせてしまうような面が、現行のCD規格にはあり、DVDとかが出てくると変化することなのかもしれない。オーケストラの弦の音とCDの音が異次元過ぎるという現実はやはりある気がするので。

 ……思わず、数年前、エマーソンの「アンダンテ・カンタービレ」のCDがむちゃくちゃに聴きづらいのに格闘した思い出から、横道に脱線してしまったが、エマーソンの音は、アルハン・ベルクに比べると何か「しまりがない」し妙に無国籍だけれども、やはり現代の四重奏団のシャープな音質を典型的に持っている傾向が強い方なのではないかと思う。だが、今回のロベルトの五重奏曲では、この楽団が実は予想外に「甘口の」トーンを持っているという側面が妙に引っぱり出された気がする。

 エマーソンの秘めていた「甘口の」コンヴェンショナルな大衆性を引っぱり出した張本人が、1923年生まれというから、すでに70歳を越えたピアノのプレスラーである。この人、某誌で「技巧がない」と某批評家がクサしたと思ったら、その同じ雑誌で、この演奏の時には「室内楽の経験深いプレスラーのピアノによってこの演奏は……」となっているのだから困ったものだ。

 どちらも真実だと思う。70年代頃までの演奏と比べても、ブレスラーのピアノの音は、ベッドフォンとかで克明に聴くと、粒のそろいが低下しているし、もともとポリーニやアルヘリチのような意味での反射神経の鋭さからは遠いピアノの音かもしれない。しかし、確かにこの人は、オーソドックスな意味での室内楽の聴かせ方のツボのようなものに、嫌になるくらいに通じている。ここをこういう風に受けてあげると、弦楽奏者はのびのびと味わいのある音を出せるとか、せっかちになったり一本調子にならずに済むのだ、みたいな、リードの仕方がとことん堂に入っているのだ。プレスラーが相手をしなかったら、エマーソンだけでは、ここまで構えの大きな余裕あるどっしりとした表現はできなかったのではないかと思う。ともかく全体が何とも恰幅のいい音である。それをエマーソンの持つ近代性が、音がだぶつき過ぎないように引き締めている。エマーソンがひとまわり大物になる上では、これはいい経験だったのではないかと思う。

 しかし、それと同時に、エマーソンがどのような「大物」になるかという点で、ハーゲンとは全く正反対の方向を取り始めたのではないかという気もする。これならば、過去のアメリカの栄光を懐かしむ保守的でしかも俗物的な中流層には、「最近のエマーソンは大人になってきたわい」と喜ばれるかもしれない。しかし、リベラルな層はエマーソンを甘口で大味すれすれと過ぎると感じ始めるのではないか。そしてハーゲンの未来の方に、ポスト・アルバン・ベルクへの期待をかけるのではないかと思う。このエマーソンの演奏に、爛熟した米国保守層のニオイをかぎつけたというのが、どこまで私の思いこみの産物なのかは、もう少しいろいろ聴いてみないとわからないが。

 もとより、もし私のようにエマーソンの音色と装置の相性の葛藤にはまらない人ならば、新しい演奏でここまでゆったりとした気持ちで「気持ちよく」堪能できる演奏はないことは保証します。アルヘリチの演奏があまりに積極的すぎると感じた人、アルハン・ベルクは何か妙に疲れるという人にも勧めます。カップリングのピアノ四重奏曲Op.47も、全く同じスタイルの、非常に安定度の高い、心安らかに聴ける聴き易い演奏です。

 ただ、私個人は、同じプレスラーの演奏としては、今回これを機会に聴いた、20年前の本家、ボザール・トリオでの演奏の方に引き締まった統一感ある「新鮮さ」を覚えたのも事実です。このエマーソンとの演奏の方が、いい意味でも「熟した」感覚とスケールと余裕感の大きさはありますが、同時に「爛熟」や「聴衆受け」も感じてしまうのです。CD一覧に戻る

   

9.レヴァイン/ラサール盤は、81年のアナログ末期の録音。グラモフォンのデジタルになってからの弦の音の再生にはつくづく苦労させられてきたが、この録音はくっきりしつつも大変まろやかで聴きやすい。エマーソンアルバン・ベルク、古くはブダペストあたりを聴いた後だとこの音は妙に神経が休まる。

 演奏もボザール盤と並んで一番スマートでストレートで腹にもたれないクールなものハーゲンあたりと比較すると遥かに線は太いのだが、一種クリスタルであるとすらいえる(アルバン・ベルクの音の透明さとは異なり、磨りガラスでできた置物みたいという意味での)。聴いていて嫌な音は何一つ立てない。しかし、表面をなでているだけの軽さというのとも違う妙な質量感もある。この演奏が聴いていて一番疲れないという人も少なくないかと思う。興奮やロマンの押し売りをしない演奏。

 第1楽章や第2楽章の中間部には劇的なものが欲しいという人もあるだろうし、ハーゲンの極限の音色感覚とかを聴いてしまうと、もっと細やかな描き分けが欲しいということも出てくるだろう。どこを取り出しても音色の質が均質(それがラサールの持ち味でもあるだろうが)というあたり、物足りない人は物足りないだろう。しかし、この大理石の現代彫刻に手で触れるかのような、現代的でありつつも安定感の高い落ち着いたひんやりとした感触に寧ろ安心感を感じる人もありそうである。

 それにしても、ラサールというのはその後に現れた四重奏団に比べると、何か禁欲的なまでに「静謐な」演奏をする人達という印象もある。現在の四重奏団よりも、何かひどく静かな落ち着いた時間と空間の中にいるかのような感触がするのは妙にうらやましい。もとよりその静謐さは、窓の向こうにビル街が見える人工的空間の静謐さである。しかしそこには病的なものは感じられない。すでに80年代後半以降の人間が失った貴重な「時間からの自由」がここにはあるのではないか?

 伴奏ピアニストとしてのレヴァインのうまさは定評あるものだが、ここでも必要にして十分、決して弦楽器と張り合いすぎない巧妙なスタンスで役割を果たしている。ただ。やはりこの人は根が健全すぎないだろうか。恐らくこの演奏を口当たりのいいものにするのには相当貢献しているが。

 併録のシューベルトの弦楽五重奏曲は、以前に聴いたときにはその遅めでありながらストイックで抽象度の高い音色で演奏されるのにこちらの感性の持続力が追従しなかった。第3・第4楽章も舞曲的な弾みには乏しいし。が、今回聴き直すと、シューベルトの秘めた近代的感性にぴたりと照準を合わせた希有なまでに静謐な名演と思えてきた。第1楽章第2主題以下、第2楽章、第3楽章の中間部などは非常に透徹した世界である。ヴィーン風の情緒とかとは無縁だし、私がなじんできたビルスマ盤の生気と繊細さと人間くささをかね備わる演奏と比べれば、ホントに抽象的な現代彫刻なのだが、妙にそのひんやりした感触にほっとさせられるものがあったのも事実である。このシューベルトは心が「静まる」。「安らぐ」という以上に。 CD一覧に戻る 

 

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