いきなり弦楽器の分厚いハ短調の主和音のスフォルツアンドの一撃で始まるこの曲の冒頭。弦はこの一撃の直後からすぐに背景に回り、小刻みな八分音符の同音反復の伴奏できれいなさざ波の絨毯を引いて、ピアノによる、あのあまりにもパンチ力があるリズミックな第1主題の到来を支える。

 そもそもこの変ホ長調を主調とする曲の終楽章がハ短調で決然と始まることそのもののインパクトはきわめて大きい。最初の楽章は短調で始まり、フィナーレが長調になるというのならば、モーツァルトのト短調ピアノ四重奏曲もそうだし、ベートーヴェンの第5交響曲以降ありふれた手法となる(メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲もそう)が、ここでははその逆である。私が知る有名曲では、他ならぬシューマンの盟友、メンデルスゾーンの「イタリア」交響曲が、この、終楽章で短調に転ずる数少ない実例である。

 なぜシューマンはここでフィナーレを短調ではじめたのか。それはひとつには直前の第3楽章が明るくて華やかなので、シューマンが意識的に仕組んだフェイント攻撃なのだろう。恐らくたいていの作曲家だと、終楽章の序奏にゆったりとした短調の部分を置いて、おもむろに主部の第1主題は長調で……という形で問題を解決するところを(ベートーヴェンの七重奏曲やブラームスの交響曲第1番の終楽章等、事例は枚挙にいとまない)、シューマンはより大胆にしてインパクトの強い戦略で臨んだ。

 かといって、この終楽章が悲劇的かというとそうではない。この短調の主題の特異な魅力は実際聴いていただくしかないだろう。暗くも悲しくもない。なのに独特の軽佻浮薄さがあるのだ。

 私はこのピアノの主題を聴くと、いつもまるで女性にキツイ一言で突き放され、肘鉄を食らうような気分になる。別に前の第3楽章の第2トリオの「ファック・シーン」の後で、「フン、へたくそ!」とか「早すぎるわ!」となじられるわけではないにせよ(笑)、思わず、「♪あんた、なんか私にゃ10年早いわよ」とか何とか、節を付けて歌いたくなる。

 しかもこの終楽章のとくに第1主題の部分全体が、伴奏も含めて、非常にリズミックで「ビートが利いている」。それはこの主題が実は二拍子の二拍目から開始することで、見かけ上完全に「あと打ち」のリズム構造を持っているせいだろう。ほとんどディスコ・ミュージックにしても通用しそうな、何とも現代的でポピュラーチックな、思わず身体を揺すりたくなるノリの良さを持っている。しかし私が知る限り、この曲の旋律を使ったポピュラーソングはザ・ピーナッツビリー・ジョエルもやっていないようである。昭和40年代の歌謡曲になってしまう危険はあるが、内田有紀のような、ちょっとだけつっぱったところがある若いアイドルにこのメロディで歌わせてあげたい気もするのだが(この企画、著作権は請求しませんので誰かやりません?)。

 当初弦の伴奏でピアノのみで始まったこの圧倒的な魅力を秘めたリズミックな第1主題。実はこの主題は第1楽章冒頭のあの華やかな長調の第1主題の音を組み替えて短調にしたものである。この主題は、繰り返されるうちに、第1バイオリンあたりも実に激しいアタックでピアノに寄り添うように歌おうとするのだが、それすらこのピアノははねつけてしまう。何ともタカビーなメロディである。この曲の中でピアノが他の弦楽部をここまで完璧に伴奏に回して自分だけ目立とうとするのはこの終楽章の第一主題のみである。しかしそのピアノを支える伴奏部そのものが何とも効果的な快適そのものの音の絨毯の敷き具合。

気がついてみると、ピアノに次に出る、ならだらかな進行の旋律は長調になっている。それに今度はト短調でバイオリン・ソロが第1主題を気取ったタッチで弾いて、ピアノの方が和音で合いの手を入れるという役割交換。そしてさっきのピアノの長調のなだらかな上昇旋律がもう一度優しく包み込むようにそれを受けとめる。

 ここから経過句。ほのかに暖かい優しい親密な空気が流れはじめる。さっきの冷たく突き放すような態度は愛情の裏返しだったんだね(世間はそんなに甘くないやい)。ピアノはさりげなくはぐらかすように軽やかな動きで弦のピチカートの「合いの手」が絡む動きをはじめ、調性を移ろっていく、そこで最初はヴィオラに登場するなだらかなト長調の旋律が第2主題である。

 この第2主題は次々と他の楽器に引き継がれてフガート風に展開され、最後にはもう一度ヴィオラで歌われた後、全楽器による登り詰めるような激しい憧れに満ちた上昇の繰り返しを経て、短調の第1主題のピアノによる決然とした再現につながる。少し会話に乗ってきて心を許しはじめたかと思っていたら突然また「これ」だ。

 ここで曲想が転換、展開部に入る。この展開部は、シューマンがピアノ協奏曲の第1楽章の展開部の前半やバイオリン協奏曲の第1楽章のそれで見せたのに近い、寧ろ緊張から解放された詩的・散文的な「つかの間の安らぎの空間」という感じで、そんなに長くない(後述するように、この曲の真の展開部は、むしろ、延々と拡大されたコーダの部分なのだ)。

 一休みするように誘いかけるような穏やかな響きが、弦の中声部以下で奏でられる。それを受けるピアノとチェロの生み出す三連符を含むモティーフは、明らかにホルンの角笛の響きを模したしたものだろう。それにバイオリンが優しく応えたところで一度リタルランド。しかしまだどこかで何かが胎動していることを、チェロの旋律の断片とピアノの小刻みなゴロゴロ言う音の動きの断片が告げる。このバイオリンの「休みましょうよ」というようなやさしい下降旋律とピアノのゴロゴロはもう一度やりとりが繰り返され、ここでやっと全楽器が一度ゆったりとした安らぎのもとにリタルランドして小休止。

 ここでヴィオラを伴奏にしてバイオリンが全く新たな長調の旋律(コーダでもう一度出てくるので仮にとしておく)を伸びやかに歌い始め、他の楽器もそれに唱和するのだが、再び忍び寄るように短調の足音が次第に強く刻まれはじめる。

 そして嬰ハ短調で第1主題の再現。ここからが再現部であるが、提示部のハ短調の半音上からというのが何とも大胆。しかしここからは基本的には提示部と同じ形で再現部が構成され、第1主題が再現されて小結尾にいたる。

 ここで、まるで仕切直すかのように全楽器で長調で第1主題に基づく上昇音階が華麗に奏でられる(d)

ここから、もはや第2展開部としか言いようがない壮大なコーダが始まる。

 このコーダそのものがご丁寧にもA−B−A−結尾の二重構造になっている。この、ベートーヴェンの第5交響曲の終楽章のそれにも匹敵する、どこまでも別れを惜しむかのような終結部の膨張は、シューマン自身のピアノ協奏曲の終楽章でも見られるものであるが、このピアノ五重奏曲の終結部の長大化にははっきりした別の要因も絡んでいる。シューマン自身が一度10月12日にひとまず完成させた後で、先程述べたにあたる部分を10月16日に加筆したのだ。そのためにもう一度Aの部分を「再現」して終結させる必要が出てきたようなのである。

 まずはピアノにあかるく朗らかで和やかな旋律(A)が出るが、一見単純な四分音符の連なりのなだらかな旋律のようでいて、何か妙に余韻のある、半歩遅れて打ち込まれるような響きがしていることに気づいている人がどれくらいいるだろうか? シューマンお得意の切分音のさりげない活用で、八分音符ひとつ分だけ絶えず後ろにずれて小節線をまたいでメロディが書かれているのである。このメロディに途中から重なる弦楽器群の方は切分音なしで素直に弾いているのでこのズレの感覚はわかりやすいだろう。

 推測で言うのだが、この(A)のメロディが終わったところでそのまま結尾の盛り上がりに直進…というのが、試演当時のこの作品の原型に違いない。例によって鼻歌で歌っていると思わずそうしてしまうのできっとそうである(と独断する)。

 ところが現実にはここからもう一度第1主題がピアノで歌い出されるのである。しかしここで弦楽器はピアノの第1主題を伴奏するのではなくて、この主要主題に基づくフガートとしてビアノにからみつき、徐々に展開されていくのである。ここからが前述の、後に追加されたコーダ(B)の部分。

 しかしこのフガートは実はまだ前座である。70%ぐらい盛り上がったところであっさり打ち切られ、展開部後半で用いられたの旋律がピアノに出てくつろいだ気分を作る。

 しかしそれも長くは続かない。徐々に「来るべきな何か」を準備するかのように徐々に力を蓄えて高揚していくのだ。その中で、華やかにはね回るピアノの背後でいつの間にかバイオリンに第1楽章冒頭のあのモットーがはっきりと奏されている。そう、この後で何かが起こるのだ。

 全楽器が盛り上がり、壮麗に和音を鳴らしてフェルマータ、偽終止する(演奏会でここで拍手をしたらひんしゅくものだけど、過去にこの過ちを犯し赤恥をかいたた聴衆は世界に数百人なんてものではないだろう)。

 ここから全曲を締めくくるにふさわしい壮麗な二重フーガが始まるのだ。ピアノにまず二倍の遅さにのばされた第1楽章第1主題冒頭が単音で出る。その伴奏でもあるかのようにして途中から付き従う第2バイオリンの旋律は、よく聴くとまさにこの第4楽章の第1主題を長調にしたものに基づいている。この二つの旋律の両方を同時に並行させて対位法的に処理して各楽器で徐々に編み上げられていくフーガ。まさに全曲をひとつに統一する壮麗なモニュメントである。

 これが終わって再びコーダの入り口、全楽器による第4楽章第1主題に基づく上昇音階に回帰。切分音の旋律(A)がまたもやピアノに出てそっくりそのまま再現され、さっきと同じ形で盛り上がり、今度はそのままストレートに結尾部へ。この終楽章の第1主題を長調に移して加工したモチーフを全楽器で明るく盛り上げて、楽しげに終結する。

 ……果たしてコーダ(B)のフガートが絶対必要だったかどうかには意見が分かれるかもしれない。人によってはくどいとしか感じないだろう。しかし、この曲全体のスケールの大きさからすると、(A)の部分一回だけで型どおりに素直に終結したのでは終楽章はバランス的にかなり竜頭蛇尾になってしまったといえるかもしれない。何しろ楽章開始からこのコーダに突入する再現部終了までの所要時間がわずか3分47秒。ここから先、コーダ全体は延々と更に3分33秒も続いている!(パウル・グルダ/ハーゲンQ盤による)。

 いずれにしても、この曲の終楽章、実はシューマンの前期のすべての作品の中で、私が二番目に好きな楽章である。特に冒頭主題の奔放さは、いかにシューマンといえどもそう滅多に書けなかった圧倒的な魅力を秘めていると思います。クラシック嫌いの人でも、生きのいい演奏で聴けば、この終楽章、そして第3楽章の新鮮な魅力には気づけるのでないかと思う。

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 シューマンがこの曲で切り開いた室内楽の枠を越えた劇的で交響的な音の世界とドラマチックで力動的な曲の構成は、過去の伝統から飛躍した何かを秘めているように思える。もとよりベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」やチェロソナタの3番以降、「ラズモフスギー」の3曲、「セリオーソ」には、従来の「家庭音楽」の枠をはみ出す劇的ダイナミズムとシンフォニックな響きの追求があり、シューマンは明らかにこれらの曲の大きな影響を受けていた。

 だが、大ピアニストでもあったベートーヴェンですら、ピアノを加えた3つ以上の楽器による室内楽の世界では、ここまで交響的・劇的ダイナミズムを追求する作品は結局書かなかったのである。弦楽四重奏という抽象度が高い編成のみが、ベートーヴェンが一番過激な実験を試みる場になっていく。もしベートーヴェンの耳がピアニストをやめる必要があるくらいまで悪化しなければ、自分で演奏会で弾けるとなれば、チャレンジ精神旺盛な彼もきっとこの試みに挑んだとは思うが。

 まさにシューマンは、この曲で、ピアノと弦楽四重奏の完ぺきな融合という、ベートーヴェンがやり残した課題を成し遂げ、室内楽の歴史を一歩前に進めたのである。

 シューマンの交響曲をあまり評価しない人も、この曲は認めるだろう。もとより、人によっては、一見地味だが、室内楽的書法の緻密さという点では更に円熟した、次に書かれる、「室内楽の年」最後の大作、ピアノ四重奏曲変ホ長調Op.47の方を評価するかもしれない。ロベルト自身もピアノ四重奏の方が完成度が高く効果的だと見ていたようである。

 しかし、シューマンはこの曲の中に時代を超えた新鮮な印象を与える面があることには自分では気づかなかったのかもしれない。ピアノ四重奏の方は、いかに書法が円熟していても、どうみても「室内楽曲」の枠の中に収まってしまう。

 だが、五重奏の方は大ホールを湧かせられるだけの圧倒的な放出するエネルギーを秘めているのだ。現代の聴き手を1回目から引きずり込むインパクトの大きさという点では、文句なしにこのピアノ五重奏曲の方が上であろう。

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*なお、この項の執筆においては、「作曲家別名曲ライブラリー 23 シューマン」前田昭雄編 音楽の友社 1995 における、門馬直美氏によるシューマンのピアノ五重奏曲の解説(pp.71-76)と、ユボー(P)/ヴィア・ノヴァQを中心とする「シューマン室内楽全集(エラート B23D-39110〜15)の、同じく門馬直美氏によるライナーノーツを大幅に参考にさせていただきました。

     

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