3.曲の構成

 まさに「輝かしいアレグロ」そのもののダイナミックな楽章。変ホ長調といえば、ベートーヴェンの例を持ち出すまでもなく、ヒロイックな「英雄」の調性でもある。

 冒頭から全楽器の総奏で和音を踏みしめるようにして、豪快で輝かしい第1主題が登場する。私が実演で、その分厚い和音に「身体で圧力を感じた」と先ほど述べた部分である。この主題は全曲を統一するモットーとして形を変えながら繰り返して登場する。いわばこの作品の核となる部分である。

 冒頭の数小節の華麗さと豪快さは、この時点までの室内楽の多くの常識をはみ出すシンフォニックなものがあるように思う。そしてこの主題にこの作品の性格全体が見事に現れているのである。実はこの第1主題の冒頭の二分音符の四音に続く八個の四分音符をどのような表情とアクセントと歌い回しで弾くかは演奏者の解釈によってずいぶん異なり(巧妙に弾ませたり、かなりレガートにしたり、一音ごとに表情を微妙に変えたり、ピアノと弦楽部で表情を別のものにしたり、実にいろいろである)、その部分の解釈で曲全体をどういうトーンで演奏しようとしているか予測がつくくらいなので、聴き比べる場合には注目していい部分である。

 この第1主題は数回形を変えて繰り返され、続いてこの主題から引き出された、より柔和な旋律がまずはピアノで出て、ビオラ、第2バイオリン、第1バイオリンと受け継がれるうちに少しずつ高揚する。そこで、ピアノソロに、新しいリズミックな動機が、まるで「合いの手」を入れるかのように出る。この動機、最後の音がシャープ記号で半音しかあがらないあたりに、何かじらされるような独特のチャーミングさがあるが、ここからはじまる第2主題の叙情的な雰囲気に切り替えるための「つなぎ」として絶妙な効果を発揮するのである。

 第2主題は、少し速度を緩め、チェロヴィオラが2小節おきに対話する、何とも優美なメロディである。ピアノはそれをタタン、タというシンコペーションのシンプルなリズムの繰り返し和音で控えめに支える。この、チェロとビオラの受け渡しのあたりは、二人の演奏者の息を合わせるセンスのデリカシーが問われる聴かせどころのひとつだろう。まるでひとつの楽器のようにシームレスに。しかしよく聴くと、歳の離れていない兄弟の対話であるかのように、あるいは実体と影との対話であるかのように響かないとなならない。弦楽四重奏団の各楽器の音色や奏法、技量の統一性の度合いが非常によくわかる部分である。この楽器間の対話は、再び先ほどのピアノの「合いの手」を挟んで、今度はバイオリンの対旋律を加えて少し高揚した形で反復され、更にもう一度ピアノの「合いの手」。

 ここで唐突に第一主題冒頭のテンポに戻り、冒頭の動機に基づく少し緊張した楽器間の音のやりとりの後、シューマンお得意のヘミオラ的なリズムがピアノにきらめいて、そのまま第一主題を中心とする、全楽器によるダイナミックで晴れやかな小結尾に至る。

 提示部を反復する場合にはこの小結尾がそのまま和声を転じて全楽器が華やかに「なだれ落ちる」ダイナミックな接続部を経由して再び冒頭の主題に回帰する。このあたりは何とも効果的な輝かしいパッセージなので、この曲に関しては提示部の反復をしないのは何とももったいないということになると思う。幸い殆どの演奏がこの提示部は反復するようである。

 展開部は、提示部の総終止のあとで、まるで仕切り直すかのようにして、短調のゆっくりとした下降旋律がまずはピアノに出て、チェロ、ヴィオラ、バイオリンにに受け渡されていく。ここまでの華やかな快速さに急ブレーキをかけて、あたりの空気が急に憂鬱なトーンを帯びる。

 実はこの展開部冒頭に入るまで、曲は一貫して長調の和声中心に進んでいたので、ここでいきなり始まる短調の沈み込む楽器のやりとりは雰囲気を急変させる大変劇的な効果を上げる。私はこの部分で、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタの提示部の後半の華やかな長調の展開のあとで、それを断ち切るかのように再び冒頭の序奏部の短調の悲壮感あふれる部分が回帰するときの効果を思い出す。もとよりシューマンのこの曲には最初の序奏部はないのだが、このような劇的な「仕切直し」のスタイルは、「悲愴」ソナタを意識しているかどうかは別にしても、明らかにベートーヴェン的な発想のように思う。

 この展開部冒頭の沈み込んだゆったりした部分で鬱積し、堰き止められたエネルギーは、冒頭主題を短調にしたモティーフの提示の部分から一気に放出されはじめる。
 引き続き、ピアノの延々とした分散和音のパッセージ……これ自体が実は提示部のあの優美な第二主題の変形……が駆け続けるのを弦楽器の長く引きのばした和声が支え、激流を一気に流れ下っていく。この展開部のぐいぐい流れていく表現スタイルは交響曲第4番の第1楽章の展開部のスタイルとも似ている(第4交響曲の第1稿はこの五重奏曲の約1年前に作曲されている)。途中1回だけ更に冒頭主題を短調で再現した後も延々とどす黒い情念の「激流下り」が続く。時々弦楽器やピアノが流れが岩ににぶつかって砕け散るように叫びをあげ、更にとうとうと流れ下る。

 だが、その流れが次第に長調の和声を準備する明るさの兆しを帯びはじめたかと思うと、そのまま再現部のあの輝かしい第1主題へと怒濤のように流れ込むのである。

 再現部は完全に型どおりに進んだ後、そのまま自然に明るいコーダにつながって終結する。

 ピアノと弦楽器群を、時には重ね合わせて分厚いシンフォニックな響きを出し、時には対等な形で「競奏的」に(「協奏的」に非ず)渡り合わせ、むしろソロの見せ場の多くをチェロやヴィオラに与えることによって、ピアノの華やかな音に弦楽器群が圧倒されないように配慮する(当時のピアノと弦楽の室内楽で、弦楽の低声部がピアノから独立した動きをとることはまだ少なかった)。
 ピアノは時には前に出て、時には背景で控えめな伴奏の役に回るが、全体としてみると、独奏曲の時ほど和音を重ねず、適度にシンプルな鳴らし方にすることによって弦楽部に対して出しゃばり過ぎない節度を保つ(といっても、シューベルトの「ます」五重奏曲が、オクターブの音ばかり両手で弾いて、まるでひとつの声部に過ぎないのような控えめな役割しか果たさない場面が多いのに比べるとかなり積極的。「ます」五重奏曲のピアノパートは妙に「軽く」できている)。
 ピアノをうまくソナタ形式の各部分の「合いの手」に使うことで、曲のひとつひとつの部分に異なる性格を与えて、次々と曲想が変わる、めくるめく多様性を内包させることに成功している。

 シューマンはソナタ形式を用いる実に多くの場合、再現部の一部を省略することが多かったのであるが、ここでは型どおりの再現部である。
 すでに述べたように、提示部と再現部をひたすら長調中心、展開部を短調のみと描き分けたことも、型どおりのソナタ形式にもかかわらず、再現部が冗長という印象を与えずに済んでいる。もちろん提示部自体旋律がみんな魅力的で、提示部内部の構成も実に対比効果の鮮烈な起伏に富んだものなので、自然と「もう一度」聴きたくなるせいもあるが。ベートーヴェン以降、ソナタ形式の展開部が肥大して見せ場の中心になる中で、再現部がやや冗長な部分になり始める中で、むしろ展開部の膨張を抑制しつつ提示部・再現部と対比度が強い内容にして、ソナタ形式の原型としてのA−B−Aの三部形式に回帰しているともとれる。シューマンの書いたソナタ形式の提示部としては最高の成功作のひとつだろう。

    

 冒頭に静かに現れるピアノの分散和音は第1楽章冒頭のモットーの変形である。それに続いて始まる、しずしずと進む葬送行進曲の歩み(A)。時々冒頭のピアノのモットーが繰り返し「合いの手」として控えめに入る。

 しかしこの行進はショパンやベートーヴェンの葬送行進曲のムードともまた違う。音がひとつ二つ出る度に、弦楽器とピアノがすべて一斉に八分休符を挟む。沈黙を挟みながら「ぶつ切り」にぽつりぽつりと奏でられる旋律の、独特の「むっつりとした」肌触りは、一度聴くと忘れられないだろう。ここまで「休符」の沈黙の効果を、それこそ「サウンド・オブ・サイレンス」として生かし抜いた音楽は前期ロマン派当時では滅多にない。何かその休符の間隙を覗き込むと憂鬱な底なし沼が広がっているような。敢えていうと、シューマンの交響曲第4番の第2楽章にも、これにかなり近い孤独な沈黙のトーンがある気がする。この不気味なまでの沈黙感が、あの輝かしい第1楽章の後に来るというコントラストの大きさ。

 再び冒頭のピアノのモットーが出ると、この葬送行進曲はすぐ後でピチカートで終結する。そして今度は、ピアノの控えめな分散和音の伴奏の上で、弦楽器がなだらかな副主題の旋律を長い線を描きながら互いに織りなしながら静かに奏する(B)。そこには静かな悲しみの中にも淡い慰めの感触がある。

 そして再び葬送行進曲(A)の回帰。

 この行進曲が再び沈黙の中に消えた時、チェロに不穏な持続音が後を引く。そしてピアノの低い音が更に深くポツンポツンと奈落の底に落ちていく(この下降モティーフは第1楽章の展開部の入り口と共通のものである! そのために、普段頭の中でこの曲を口ずさんでいると、この部分からもうひとつの楽章にすり替わってしまうことが私にはよくある)。

 ここで曲は突然ヘ短調に転じてアジタート、テンポをアップしてピアノと弦楽器が「競奏的」に荒れ狂うドラマチックな対位法的やりとりをはじめる(C)。ここでモティーフとなる旋律は三連符と通常の八分音符を織り交ぜた、ぎくしゃくしたすんなり流れないものなのだが、それが一層弦とピアノの応酬を非常に葛藤的なものにする。弦楽器群の方はシューマンお得意の切分音を多用してズレを感じさせながらピアノに応酬しようとするが、なかなか応じきれない。

 ……沈黙の葬送行進曲の中から突然この不安定な焦燥感のあるアジタートの部分が始まるときの衝撃波は大きい。この部分、一度完成・試演した後で、この試演の際に身重のクララに変わってピアノを弾いたメンデルスゾーンの忠告を聞きながらかなり推敲し直したらしい。しかし曲想のはらむ深い「鬱」感覚とムラ気さは、根が上品なメンデルスゾーンには不可能な次元のものだろう。弦楽四重奏を献呈された時には「こいつもなかなかやるな」と見ていられたろうが、このピアノ五重奏を聴いたときには、自分にはないロベルトの資質に驚愕したのではなかろうか。

 もっとも、リストがシューマン家を訪問してこの曲を聴いた時、「ライプツィヒ風だね」と言ったのがクララたちには相当気に障ったらしい。「ライブツィヒ風」とは、「あのユダヤ人のメンデルスゾーンごときの亜流」というニュアンスが込められていることになる。ロベルトとリストは、互いの作風の違いを越えて個人的には互いを認めあい、リストはあのピアノソナタをロベルトに、ロベルトは「幻想曲」をリストにと、それぞれの最も独創的な代表作のひとつを互いに献呈しあっているのであるが、特にクララは「私、あの人好きになれませんわ!」だったようだ。

 話を五重奏曲の第2楽章の中間の激しいアジタートの部分に戻そう。この弦とピアノとの激しい対位法的やりとり(C)の後、曲は、何とこのアジタートのテンポと激しい雰囲気を引きずったままで、葬送行進曲の部分に回帰するのである(A’)。ここではチェロのソロが、実に雄弁に葬送行進曲の主題を奏し、続いてその旋律の後半はヴィオラ・ソロに託される。背景にはさざ波のようなピアノの伴奏。手の空いた弦楽器はトレモロの持続音と、(C)の部分の激しい音の動きを「合いの手」として入れる。

 結局、(C)と(A’)の部分はこの曲の中間部・展開部としての効果を持つのだが、それが(C)のみならば一種のロンドソナタ形式として自然と納得できる。ところがここではそれに続く(A’)までが展開部的役割を果たすあたりが異色である。ちなみにこの部分の演奏に関しては、パウル・グルダ/ハーゲンQ盤が、グールドもびっくりの、他の演奏と全く異なる過激な解釈をしていて、恐らく賛否両論だろう。

 ここまで来て曲はやっと本来の緩やかなテンポに回帰して、再び(B)の柔らかい主題を奏するのだが、直前の部分の激情の余韻を多少引きずる形で、一度目の登場の時よりもじっくりと歌い込まれる演奏が多いように思う。

 曲は最後に再び最初の形に近い、ポツリポツリとした響きの葬送行進曲(A)に回帰する。しかしこの最後の回のみが調性はヘ短調ではじまり、途中から実にさりげなくハ短調に復帰する。しかも旋律を受け持つ楽器以外はこの回のみピチカートで伴奏する。ロンド形式で主要主題の(途中はともかく)最後再現の際、途中まで調性が異なるというのはかなりの破格である。

 この葬送行進曲の最後の再現は、それまでよりも一層深い寂寥感を引きずりながらも、抑鬱の中に沈むというより、か細い中にも悲しみを「表に出して」歌い上げていくようにも感じられる。悲しみを受け入れる「喪の儀式」は終わったのだ。

 曲は終わりのほう、ハ長調の和声に徐々に傾いていき、弱々しいが、かすかな希望の光を感じるハ長調の弦の高い音域での主和音で終結する。この終結のかすかな明るさは、次の第3楽章へのつながりという点でも実に効果的である。

 ともかく破格のロンドソナタ形式であり、一応既成の枠を生かしているかに見せかけつつ、それを換骨奪胎して自分独自の表現に引きつけている。シューマンの書いた最も独創的なソナタ楽章のひとつであることは間違いない。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第2楽章の独創性にも比肩する。

      

 シューマンの書いた最も輝かしくて独創的なスケルツォ楽章。

 冒頭からピアノが音階を駆け上がっては駆け下りる、まるで機関銃のようなダイナミックな打鍵のリズムの連打を繰り広げ、それに弦楽器群が分厚い和音で絶妙の合いの手を入れる。そのうちに弦楽部もピアノに負けじと、時には一緒になって、時には「競奏的」に、このダイナミックな音階の往復運動に参加し始める。このあたりのほとんどアクロバティックでスリリングで交響的な書法のリズミックな奔放さは、まさにベートーヴェンが引きずり出したスケルツォという書法の持つアグレッシヴでダイナミックな側面を極限まで生かし抜いた、圧倒的な音響空間である。室内楽曲がここまで徹底的に外向的で奔放な「サウンド」の饗宴となったことは歴史的にもそれまでなかったことだろう。これはもはや「家庭音楽」としての室内楽ではない。大ホール向けの音響の世界である。

 変ト長調の第1トリオは一転してなだらかな印象ピアノも控えめに背後に回る。しかしそれは突然のバイオリンの激しい三拍子の刻みを先触れにして再びあの華麗なスケルツォの部分に回帰する。

 このスケルツォの再現の後の第2トリオ!! 拍子は突然2拍子系に戻り、変イ短調、弦楽器になる常動曲的なパッセージが延々と続くのを、ピアノがまたもやタタン、タのリズムで支えていく。そのうちにピアノも常動曲的リズムに参加するようになり、弦楽器もピチカートの上昇音階でピアノに応酬する。そうこうするうちにこのリズミックな常動曲は独特のトランス状態の中に盛り上がるのである。

 このせかせかとしたタタン・タのピアノのリズムの強迫性と弦楽器群の小刻みな常動曲的リズムが絡み合う時の律動感、一見淡々としているようでいて奇妙にそこに何か無意識の底から衝き動かされ陶酔させられるものがある。敢えて不謹慎を承知で言えば、この律動感はまさに「性的律動」のそれなのだ。もっと露骨に言えば「ピストン運動」ですね(笑)。こういう印象を残したクラシックの音楽は滅多にない。「トリスタンとイゾルデ」にはピストン運動はないもんね。

 で、イクところまで行ったところで(笑)、そこまでの二拍子系の弦の刻みが突然スケルツォの3拍子系の刻みに切り替わるところのガクンと変速ギアを入れるリズムの切り替えの瞬間が、この楽章で私がいつも一番楽しみな部分である。いきなり三拍子の主題をはじめるのではなくて、まずは先触れの伴奏の弦の刻みをガクンと切り替えるというあたりが、何とも近代的な印象がある。

 この曲に限らず、シューマンはスケルツォ楽章で主部とトリオで二拍子系と三拍子系を対比的に用いるのが大好きだったが、私は少なくとも中期ロマン派までにおいて、曲の途中での三拍子糸と二拍子系の切り替えに関して、単純にしてこの曲ほど効果的な事例を他に知らない。

 曲は型どおりにスケルツォを再現した上で、ピアノがオクターブを往復して激しく打ち鳴らず和声に導かれる短いけれども華やかなコーダとともに終わる。

 ベートーヴェンの「セリオーソ」の最初の楽章やスケルツォ楽章、「ラズモフスキー第3」のフガート風常動曲の終楽章と並び、こと室内楽の分野において、殆ど打楽器的とすらいえる集中力に満ちたダイナミックなリズムの交響的饗宴としては、結局バルトークが登場するまで誰にも越えられなかった、「奇跡の楽章」のひとつだろう。

 こういう楽章になると、現代曲も得意な近代的でヴィルトゥオーゾな弦楽四重奏団の演奏が絶対有利である。曲そのものが全体の構成として実に効果的にできているために演奏の出来不出来の差が目立ちにくいこの作品の演奏で、練習や技巧の不足等で露骨にボロが出るとすれば、たいていこの楽章の演奏でであるといっていいようにおもう。

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