3.各楽章の構成 

   

 いきなり荘重な第1主題が中音域の弦の3連符の刻みを伴奏にして管弦楽のみで現れる。メロデイックと言うよりは幾分ぎこちないくらいの旋律だが、すでに述べたように、もしこの部分をロマン派の味付けの加わったバロックのフランス風序曲と理解すれば、この重付点音符の効いた重々しいメロディも容易に納得がいくのではなかろうか。シューマン自身「力強く、あまり早すぎないように」と表記していることを忘れてはならない。

 第2主題が始まるところで伴奏の弦の三連符が一度外れて、弦楽合奏にフルートを伴うヘ長調の柔らかいメロディが始まる。この旋律を霊感が乏しくで芸がないと感じる人もあるかもしれないが、伴奏の合いの手と旨く呼吸を合わせれば、独特のため息をつくような効果が出るはずである。ただ、管弦楽提示部のこのあたりを本当に旨く解釈できた、完全に私が納得できる演奏には巡り会えていない。

 再び第1主題部の荘重な部分にかなり近い内容のものが経過句としてあらわれる。このあたり、提示部は殆どA-B-Aの構成でできているといってよく、単純といえば単純きわまりないが、シューマンが意識的にバロック様式をねらっていたとすれば何のおかしいこともあるまい。

 経過句が急に静まったところではじめて独奏バイオリンが、まるで無伴奏バイオリンパルティータでもはじめるかのようにして、重音奏法を駆使して登場し、管弦楽の控えめな伴奏を伴いつつも、多少カデンツァ的な動きを見せた上で第1主題をゆっくりと奏する。これまた荘重で何とも渋い、堅苦しいとも言える響きがあるが、これまたバッハか何かを効くつもりになるとスンナリ理解できるだろう。

 このあと第1主題を擬古典的に装飾を重ねたところで再びヘ長調の第2主題。管弦楽提示部よりはかなり生き生きとした美しさをもつ生彩ある部分として聴こえるのではないかと思う。途中から長調になってのままで第1主題を用いた経過句となり、バイオリンがのびのびと重音奏法を駆使して歌い上げる。このあたりはベートーヴェンやブラームスのバイオリン協奏曲の同じような部分を思い起こさせる幸福感がある。経過句の後半はバイオリンは休んで再び管弦楽のトウッテイで、しかし長調で第一主題の旋律が朗々と歌われて提示部は終わる。

 展開部は、一見独奏提示部と似たようなバイオリンの重音奏法で始まるが、ピアノ協奏曲の第1楽章展開部の前半と同様に、比較的弱音を多用して静かで詩的な移ろいの中で第1主題と弟2主題を展開していく趣きが強い。管弦楽はかなり控えめに独奏バイオリンを支えるのみ。

 突然少しずつ独奏バイオリンが熱を帯びはじめたと思ったら、そのまま再現部に突入。最初は独奏バイオリンを伴っているがすぐに管弦楽のみのトウッテイとなる。こうなるとこの管弦楽総奏の繰り返しの回帰が少しくどくて長ったらしいと感じられはじめなくもないが、バロックのコンチェルト・グロッソのリトルネルロ、総奏とソロの交互の出現と思えばどうだろう。その後再現部は殆どソロ提示部と同じ形で進む。

 そしてまたもや第1主題の管弦楽トウッテイ、くどいなあと思ったところで、従来の半分の長さのところで急に静まり、長調のバイオリンソロで、肩の力の抜けた新しいメロディが導入される。ここからがコーダである。バイオリンは3連符の重音奏法で明るく歌い上げて、華やかさを盛り上げようとするのだが、最後には楽章全体の腰の重さの方が勝ってしまうような管弦楽のトウッテイによる重たい長調の和音で終わる。

 確かにくどい、この楽章は。シューマンにしては型どおりに協奏ソナタ形式に従い過ぎという意見もあるだろう。しかし、シューマンはこの曲をヨアヒムの独奏したベートーヴェンのバイオリン協奏曲の刺激で作り始めたのである。重厚長大な弟1楽章になるのが当然とも言える。そもそもベートーヴェンやブラームスのバイオリン協奏曲の弟1楽章にしても、メンデルスゾーンやチャイコフスキーに比べれば、初心者のクラシックファンには退屈で冗長に響くのではなかろうか。独創的な構成のピアノ協奏曲の第1楽章(もともとは独立した単一楽章の幻想曲だったことを忘れてはならない)の即興的な奔放さを期待するから期待外れと感じるのである。練り込んだ解釈で聴かせれば結構多様で味わい深い音楽になる。演奏解釈の歴史が浅すぎるのである。

 

 問題の絶筆、クララを戦慄させた、投身自殺直前の「天使が与えてくれた」メロディによるピアノ独奏のための変奏曲とほとんど同一の主題による変ロ長調、4/4の緩やかな楽章。おもしろいのは全編にわたってチェロが2つの奏部に分割され、その片方は切分音のシンコペーションで分散和音的にあたかも対旋律のように響きながら第2の独奏部的な形で絡んでくる点だ。しかも、ただの分散和音ではなくて常に半拍遅れて入ってくるので独特の浮遊感と不安感を生み出す。私は永らくこの分散和音をチェロ独奏だと信じていた。

 主要主題部ではこのチェロの分散和音の音型の方が管弦楽伴奏で先に出てくる。その後でさほど立たないうちに、問題の「天使の主題」を独奏バイオリンが歌い始める。中間に短くて多少孤独感に打ちふるえる趣きの中間部を持つA-B-Aの三部形式とも言えるだろう。ちなみに展開のプロセスではバイオリン独奏もこの切分音の分散和音動機をくり返し奏し、独特のかすかな不安な気分を呼び起こさせる。全体として飾り気のない静かな楽章である。ブラームスのバイオリン協奏曲の第2楽章とも似た風情があるがかなりこちらの方が短い。切分音の分散和音動機が時々介入しなければ少しとりとめもない叙情的な楽章と感じるかもしれない。

 主要主題再現部は提示部より短調に偏る傾向があり、提示部よりやや長い。殆ど展開部的な側面も内包している。最後に長調でもう一度二分割されたチェロ奏部の一方に分散和音の切分音の動機が戻り、あたかもこれからもう一度主要主題部が3回目の回帰を見せるかのように感じさせたところで曲はそのままテンポを速めて高揚し、次の楽章になだれ込む。

 

  3/4、ニ長調の、ポロネーズ風の明るく輝かしい旋回する分散和音風の、単純だが忘れがたいメインテーマを持つロンド。実はこの音型は前の楽章の主要主題部の後半でさりげなく独奏バイオリンにも表れている。

 詳しくは個々の演奏を紹介する次の節で分析するが、このポロネーズ風ロンドの主要主題を、どういうテンポとアーティキュレーションで奏するかということで、この楽章全体の雰囲気は激変する。ショスタコピッチの交響曲弟5番の終楽章のテンポ設定と同様に、演奏者の個性と主張が恐ろしく曲の意図するものを変えてしまう実に怖い楽章である。ひとつだけヒントを出せば、シューマン自身の楽譜のメトロノームの書き込みは四分音符が1分間に63回となっている点を覚えて置いてほしい。

 主要主題そのものが前半と後半に分かれており、バイオリンソロがメロディを弾く前半が終わったところで管弦楽トウッテイ、その後にバイオリン独奏で、よりチャーミングで旋律的でにじり寄られるような後半の経過句が奏でられる。私はこの経過句にじっくりと「言い寄られる」のが大好きである。この経過句ががそのまま殆ど展開部といっていいくらいの形でしばらく展開されたところで、木管に全く新しい印象的なかわいらしいスタッカートに弾む動機が出る。この木管の動機とそれに応答する独奏バイオリンの旋律が副主題で、特に木管の動機の方はこの後きわめて重要な働きを果たすことになる。

 この副主題もかなり長い時間をかけて展開された後で、やっと主要主題の管弦楽のみによるトウッテイ部分のみが手短に回帰する。

 この後に続く部分はロンドソナタ形式の展開部というべき部分だが、まずは第2楽章のあのチェロの切分音の分散和音主題が突然回帰する。3拍子のポロネーズの中に突然2拍子系のこの部分が重複して表れるので一種のポリリズムのような効果が生まれる。

 その後は展開部の後半と言うべきかなり長い部分で、主要主題と副主題の木管の動機に独奏バイオリンの技巧的なパッセージによる展開が延々と絡む部分が来る。この部分は独奏バイオリンが技巧的なパッセージで異様なまでに駆け回らねばならない割には妙にあっさり淡々と曲が進んで、ソロそのものは「目立たない」ところがあり、ソロイオリニストには「骨折り損のくたびれもうけ」と感じさせられて嫌われる、この曲最大の難所だろう。もとよりクレメルの旧盤やベルを代表とする現代の名手はこの部分をかなり速いテンポでサラサラと難なく弾き飛ばしてくれることが多い。

 こうして曲は再び主要主題部に回帰する。ここから経過句を経て副主題まではほぼ型どおりに前半の形が反復される。まさにソナタ形式で言う再現部である。ここの後で再び管弦楽のみによる主要主題の一部の総奏、更に再び経過句が出て(何というくどさ! まあ、私はこの経過句が大好きだからいいけど)、木管群に全く新しい旋律が出て独奏バイオリンが3連符中心のバッセージでその木管の旋律に絡みはじめたあたりからがやっとコーダである。バイオリンの小刻みなハッセージはそれ相応に高揚感を盛り上げては行くが、ソリスト側からすると、またもや忙しい割には自分は目立たないフラストレーションがたまるかもしれない。そのフラストレーションがたまりにたまったところで、やっと(というか、唐突に、というか)管弦楽の総奏による「ターッ、タ、ター」という和音が曲の終わりを告げてくれる。

 今回解説書を読んではじめて曲の構造を理解したくらいで、ともかく何度も同じ旋律がホロネーズの規則正しいテンポの中で舞い戻るという感じのつかみ所がない楽章である。これがピアノ協奏曲のあの機敏な表情の変化のロンドを書いた人の作品とは思えないという人もあるだろう。

 この件に関して、後述のツィンマーマン/フォンク盤の輸入盤のライナーノートに、エックハルト・ヴァン・ホーゲンと言う人が興味深いことを書いているので最後に翻訳して引用したい。

 この楽章でシューマンは一貫してポロネーズのリズムを用いているが、ポロネーズは、この曲作曲当時でもすでに時代遅れのものになってしまっていたはずである。シューマンはふと「青春時代」を振り返ったのだろうか? ポロネーズ付きと言えば、クララが13歳の時に書いたイ短調のピアノ協奏曲がある。この曲の実際のオーケストレーションをしたのは、他ならぬクララの教師役、シューマンだった……

ヴァン・ホーゲンはこの一節の直前に、クララによってこの「バイオリン協奏曲」が闇に葬られた可能性について論じているのであり、この最後の一節の文末に原文にもついている「……」に、ヴァン・ホーゲンがどんな思いを込めたのかは容易に想像がつく。

 ロベルト、人間とはなかなか気持ちが通じ合えないものだね。


    4.私が持っているこの曲の全CD紹介(98/3/29増補改訂)

1.ラウテンバッヒャー(Vl.),カオ/ルクセンブルグ放送管弦楽団(米Vox CDX 5027 シューマン協奏的作品全集)

2.ツィンマーマン(Vl.),フォンク/ケルン放送交響楽団(独エレクトローラ 5 65470 2 シューマン交響曲・協奏曲全集/「マンフレッド」「ゲノヴェーヴァ」序曲

3.クレーメル(Vl.),アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団(独テルデック 4509-90626-2 ピアノ協奏曲 アルヘリチ(p.))

4.ウエムラ・リヨ(Vl.),バイッセル/ボン・テレコム・クラシック・フィルハーモニー(独ソニー SMK62280 チャイコフスキー交響曲第3番「ポーランド」)

5.シェリング(Vl.),ドラティ/ロンドン交響楽団(米マーキュリー 434 339-2 メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲/バイオリン小曲集)

6.ベル(Vl.),ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団(英デッカ 444 811-2 ブラームス・バイオリン協奏曲)

7.クーレンカンプ(Vl.),シュミット・イッセルシュテット/ベルリン・フィル(独テルデック 4509-93672-2 メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲)

8.ストルガルド(Vl.),セーゲルスタム/タンペレpo.(フィンランド オンディーン ODE 879-2 チェロ協奏曲バイオリン版)

9.カントロフ(Vl.),クリヴィヌ/オランダ・フィル(デンオン 33CO-1666 シューベルト・バイオリンと管弦楽のための協奏的作品全集)

10.クレメル(Vl.),ムーティ/フィルハーモニア管弦楽団(EMI TOCE-7064 シベリウス・バイオリン協奏曲)

 

 

バイオリンと管弦楽のための幻想曲ハ長調Op.131:

リッチ(Vl.),マズア/ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団(米Vox CDX 5027 シューマン協奏的作品全集)

※最近、ムターがブラームスの協奏曲の余白にこの曲を録音しましたが(グラモフォン)、未聴です。

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 順番は一応推薦順とみなしていただいていいです。「幻想曲」の方は手許にある唯一の演奏であるばかりか、そもそもこのCDでこの曲をはじめて耳にしたという段階なので、ここでの評価は避けます。

1.ラウテンバッヒャー(Vl.),カオ盤はVoxboxシリーズの一枚なので輸入盤を扱う店では結構手に入りやすいだろう。
 それにしてもこの演奏を敢えてツィンマーマン盤やクレメルの新盤より上位に置くというのは確かにひとつの決断であった。しかし私はここ数年結局この演奏を一番くり返してCDプレーヤーに乗せ続けてきた。今回改めて意識的に聴き比べてみてもその判断が正しいという結論に達せてしまったので、敢えてこの演奏を真っ先に取り上げたい。
 オーケストラの方は技術的に洗練されているかというと怪しいところもある。しかし別に何か抵抗がある解釈をしているわけではなく、この曲を実に素直にのびのびと鳴らしている。何より魅力的なのはラウテンバッヒャーのバイオリンの実にのびのびとしたたっぷりとした音色の弾きぶりである。やや楽天的で音程もベストではない。クレメルのひとつひとつの音に食い入るようなデリカシーからすれば何とも木訥な演奏。もっと「洗練された」演奏なら他にもある。ハッキリ言っていちばん野暮で無骨です。
 だが、この演奏は、この曲に対して何も構えることなく、自然体でとことん鳴らし切っている。恐らく何の計算もせずにありのままをぶつけたのがこの曲に対してはプラスに作用しているのではなかろうか。一番比較しやすい第3楽章について言えば、9枚の中ではクレメルの新盤に次ぐ遅い印象の演奏である(客観的な計測をしたわけではないが)。
 これは自筆譜を検討してスピードを割り出したクレメルの場合と異なり、恐らくラウテンバッヒャーが自分の感性と生理にに忠実に振る舞った結果だろう。クレメル新盤にどうしてもつきまとう、「意識的にこのテンポをとった」と言う印象、それにつきあわされて自分の生理に関係なく遅く弾かされために妙に硬直しているオーケストラの響きの持つ「人為性」というものがここにはまるでないのだ。
 こうして、何とものびのびとした、「天国的な長さ」の終楽章ができあがった。終楽章のメインテーマはレガード気味だが、楽譜にはスラーが書いてあるみたいなので、この演奏が正しいのだと思う。とにかく終楽章だけ取り出せばこの演奏が一番「自然に」「幸せに」「屈託なく」響くことだけは保証付き。
 もちろん人によってはこんな田舎オケの野暮ったい演奏は欠点の方が目についてイヤだと言い出すことは重々承知。絶対「レコード芸術」推薦にはなりえない。でもやはりカップリングには注目。ピアノ協奏曲やチェロ協奏曲のみならず、シューマンの地味な協奏的作品のうち、ピアノ協奏曲の前身の単一楽章の「ピアノと管弦楽のための幻想曲」以外はすべてこの2枚組CDで聴けてしまうのもお徳用。みんな水準以上の演奏です。

2.シューマンの交響作品を演奏する際、その意志的な側面に主に光を当てた「剛」の演奏と、むしろ繊細で微妙な情感の移りゆきを大事にする叙情主義の「柔」の演奏があり、どちらもそれぞれ魅力的で両方が両立した演奏は殆ど不可能なので、気分によってどちらかのタイプを選んで聴くというのが私の鑑賞スタイルである。
 前者の「剛」の典型にはクレンペラー、後者の典型にはクーベリックのバイエルン放送O.盤やマリナー盤などが入ると思うが、現在の最先端のこれからのシューマン演奏様式を予言する新鮮さと徹底度という観点から考えるならば、時代楽器による演奏を別にすると、「剛」の極限値がアーノンクールであり、「柔」の極みがフォンクだと思う。
 結局このバイオリン協奏曲の場合も、結局この二強の上位対決となった。ドイツ伝統の音色感を大事にしながら、とことん精妙な音色感で細やかな情感の移ろいを表現するという点でフォンクツィンマーマンは基本的に等質の解釈を志向している。ひとつひとつのフレーズに込められた音色のセンスのすごさ。それが少しも頭でっかちになることなく熟し抜いた職人芸的洗練として醸成されている。
 特にゆっくりした遅い部分のハイセンスさは比類がなく、第1楽章のソロが入ってからの第2主題のため息の出るようなデリカシー。最高のフレージングのツィンーマンのバイオリンをフォンク指揮のオケが絶妙のラインで支える。これは第2楽章にもいえる。
 ただ、この演奏からは、シューマンが第1楽章で指定した「力強く」という側面は生きてこないし、何より終楽章が旧来の「快速」スタイルを迷いなく採択するばかりか。主要主題のフレージングを一音一音はっきり切る形にしてしまった。このコンビならば遅いスタイルで演奏しても必ず洗練された名演になっていたはずなので返す返す残念である。もとより「終楽章は速くていいのだ」という前提に立ってしまうと、総合得点ではこの演奏を越えるものは現在存在しないことは保証できる。
 ちなみにCDは交響曲と協奏曲すべてに有名序曲を4枚組に収めている点でも、フォンク流シューマンにまとめて接しようという人には値段的にもお得である。
 ちなみにチェロ協奏曲とのみ組んだ1枚ものもあります。

3.さて、一方の「剛」。初演者クーレンカンプ以来この曲につきまとっていた先入観にとらわれず、自筆譜に立ち返って一からこの作品のあり方を検討して実行に移した、とてつもなく衝撃的で、この曲の今後の演奏解釈に決定的な影響を与え続けるであろう画期的な野心作、それがクレーメル(Vl.),アーノンクール盤である。
 特に終楽章をシューマンの自筆譜通り四分音符1分間に63個というとてつもない遅さで実際に演奏してしまったことの衝撃度は大きい。私がこの曲と出会って以来頭の中で鳴らしていたのはまさにこのテンポなのだ。これではもはや我々が慣れ親しんでいる舞曲としてのポロネーズではなくなる。しかし、シューマン自身がこの楽章に与えた、「生き生きと、しかし急速にでなく」という指定を突き詰めるとこういうテンポもあり得ることになる。
 しかも、このクレメル盤の外盤ライナーノーツにおけるアーノンクールの言及によれば、17世紀末、ポーランド独立運動の闘士、コシューシコとソビエツキによって宮廷舞曲としてのポロネーズが創始されたときは、後の時代よりも遥かに遅いテンポだったらしい。
 シューマンがそんなことを知っていたか、例によってアーノンクールの衒学的な深読みに過ぎないのではないかという声もあるかもしれない。
 それに対しては、アーノンクールは次のシューマン自身の叙述を引用する。
 「ショパンは、ポロネーズは4分の3拍子であると教わってきた自分の生徒たちに、一小節を6拍で数えるようにと強く薦めていた事実を私は知っている」。
 言うまでもなくシューマンはショパンを評論で最初に幅広く紹介した同時代人である。ショパンに直接師事したピアニストと接する機会は、演奏旅行もかなりしていたロベルトやクララは当時当然あったことだろう。この叙述を信ずる限り、ショパンのポロネーズですら、今日、ショパン自身の意図よりかなり快速で演奏されている可能性が高いのである。
 クレーメル自身、「このテンポでならばこれまで演奏不可能と言われた速いパッセージをすべて正確に弾きこなせる」と言っている。もとよりクレーメルは十年前のムーティとの共演で遥かに速いテンポ(今回の聴き比べの中でも最も速いテンポ!)で楽々と細やかに弾けていたのであるが、確かにひとつひとつのフレージングはこのテンポだと更に克明にアーティキュレイトできるわけで、そのことで生まれる魅力は確かにある。
 この第3楽章の大英断で影にかすんでしまっているが、実はそれと同じくらいに画期的なのが実は第1楽章の解釈である。「力強く、あまり速すぎない速度で」というシューマンの指示をとことん貫いた結果、この第1楽章の真の魅力がついにベールを脱いだ。増してそれを演奏しているのが古楽で鳴らしたアーノンクールだからもう言うことはない。
 私が長年夢想した、「バロック風シューマン」が見事に姿を現したのである。地の底をえぐるような、一歩一歩踏みしめるような歩み。このようにやってこそ、あの一見旋律的な魅力に乏しい第1楽章は生きるのである。このように演奏すると一見性格の弱い第2主題に自然なコントラストがつく。むしろ私としては第1楽章の方を見事な演奏として称えたいくらいである。
 全楽章を通して、クレーメルの、一音一音とことん彫塑し抜いた、切ったら血が出そうな音色の冴えには、一度これを聴くとよほどのことがない限り他の人のが生ぬるく不徹底にしか感じなくなる。しかも特に終楽章で十年前のムーティ盤とはは全く異質の演奏解釈を見事にやってのけているのには頭が下がると言うしかない。
 ……ここまで誉めておきながらこの演奏を3位にとどめたのは、ヨーロッパ室内管弦楽団の音色と、頭でっかちな頑固さが覗くアーノンクールの表現がどうしてもしっくりこなくて留保したくなる何かがあるからである。
 いっそのことこれならば古楽器のオーケストラでやってもらったほうがよほどいい。交響曲ならば、すでに、グッドマンやノリントンの演奏を完全に凌駕するメルツ/デュッセルドルフ古楽フィルハーモニー(ebs 6088)という恐ろしく斬新で刺激的なシューマンをやる団体が現れている。その演奏にはここで見られるような窮屈さなどみじんもないのだ。ヨーロッパ室内管弦楽団員は特に第3楽章で、この遅いテンポで弾くことにひきつるような苦労をしている。もっと全員の生理が自然にこのテンポを選択する形にならないとだめである。
 ……でも、このアルノンクールとクレメルの演奏が未来への道を開いたことは間違いない。その意味では絶大な評価を惜しまない、これを聴かずしてシューマンのバイオリン協奏曲はもはや語り得ない演奏である。

4.ウエムラ・リヨ(Vl.),バイッセル盤は最近タワーレコードの渋谷店で目にするまで存在すらしらないものだった。
 私は日本人の演奏家に疎いのでウエムラ・リヨという人がどういう漢字の表記が正しいのかもわからない。ただ、東邦出身者ではあるようだ。ボン・テレコムなんとかというオーケストラに至っては正式名称も想像がつかない。解説もドイツ語のみなので、ひょっとしたらドイツ国内盤のみなのではないか。ただ、”Klassishe"という言葉はここでは「古楽」を指すわけではないようだ。どう聴いても楽器は現代楽器である。新興団体なのか既成のオーケストラが改組されたものなのか? 響きはヨーロッパ的な非常に練れたものなので出来立てとはあまり思えないが。解説によれば1991年からドイツ・テレコムによって援助されるようになっているようである(私のドイツ語の能力には限界がある。アスカ・ラングレーでも呼びたいところである)。
 リヨのバイオリンはここでは実にすばらしい。小細工はしないが、音色の繊細な魅力という点ではたいしたものがある。こういう音色は通りいっぺんの欧米の若手テクニシャンには決してないものなのである。ほとんどその楚々とした音色の魅力でBグループ一位の座をものにした。あと、オケもバイオリンも第1楽章の第2主題という難物を非常に自然に演奏できている点も評価したい。終楽章も従来の早めのテンポの選択だが、その中では心持ちゆったりした雰囲気。独奏バイオリンを実にたっぷりと歌わせているので、この終楽章だけならツィンマーマンよりこちらをとりたい。
 カップリングが「どちらも終楽章がポロネーズだから」という何とも安直な理由が見え透くチャイコフスキーの交響曲第3番「ポーランド」という実は全く異次元の作品なのには面食らうけれども、その交響曲の方も悪くない演奏の方に入るとは思う。
 クレーメルの新盤にはついていけないけれども、新しい録音の一枚物のこの曲をお探しならば、もし見つけられれば非常におすすめですよこれば。日本国内盤出してないなら是非出して下さい、ソニーさん。

5.シェリング(Vl.),ドラティ盤は永らくLP時代以降唯一のこの作品の演奏盤だったが、日本では廃盤の時期が大変長かった。LP時代の末期に廉価盤で限定販売されたとき、はじめてのこの作品のディスクとして手に入れて以来ずいぶん聴いた演奏だが、比較的最近になって本家マーキュリーから見事なCD化で再度蘇った。LPにあった奇妙なゴロゴロ言うノイズはきれいになくなっている。
 ステレオ初期の録音で音は堅いけれども、すでに書いたように、このころのヨーロッパ系の指揮者や演奏家の解釈はシンプルで直截だが非常に説得力のある力強さを持つものが多く、その意味では現在でもこの曲の代表的名盤であり続けている。テンポは全体として速めの方だがムーティ盤程せっかちではなく、何より風格がある。
 ただ、こういうスタイルの演奏だけでは掘り起こせない魅力はこの作品にずいぶんあるんですよとは最近言いたくなってきた。でも、とことんシェイプされた質実剛健な演奏をお探しなら文句なくこれです。

6.ベル(Vl.),ドホナーニ盤はブラームスの協奏曲とのカップリングと言う従来あり得なかったパターンのもの。演奏は、「デッカ(ロンドン)レーベルで経験ある一流指揮者と一流楽団に売り出し中の若手奏者を組み合わせるとこんな手堅い演奏になる」という典型のようなもの。何も欠点はなく、立派ないい演奏で、この演奏で十分満足する人は多いと思います。
 ただ、恐らくこの人たちならばブラームスでもシューマンでも何でもかんでもこんな調子で手堅くこなせそうだなという感じで、できあがりすぎていて、新鮮な、「シューマンならではの」魅力を作品から引っぱり出そうというこだわりには欠けるのである。この曲をこんなにヘルシーに腹にもたれないものとしてさらりと弾ける人たちも出てきたのか。この曲もこんな風に当たり前の曲として演奏する時代が来たんだな、私のような思い入れ過剰がなくても曲は一人歩きして自然と普及してくれるのかな、それに、こういう手堅い演奏をする人たちもいてくれないとむしろ困るのは確かだなー……というのが好意的な解釈。
 その一方では、クレメルの新盤は別格としても、ツィンマーマン/フォンク盤やウエムラ/バイッセル盤からは、一見オーソドックスだけれども、この作品からぎりぎりの美しさを引き出そうと言う気迫とこだわりがひたひたと伝わるのである。その意味ではそつがないだけの演奏だなと思えてしまう。最近のデッカレーベルはこの種の演奏を作ることばかりが旨くなったみたいで。
 ……それにしても「スポーティ」だな。時にはこんなのもいいかもな、人によってはこれを一番に推するかもなと今これを聴きながら書いていて思った。どうもこういうタイプの演奏は私は評価がぐらぐらしてしまう。何となく「アイビー・リーグ的演奏」という言葉が思い浮かんだ。この演奏の一方にあのクレメル/アーノンクール盤があるというのは何とも多様性の時代だと思う。

7.クーレンカンプ(Vl.),シュミット・イッセルシュテット盤は、すでに紹介したとおり、世界初演のわずか数週間後にSP吹き込みされた演奏をテレフンケンの原盤を管理するテルデックが最近実に丁寧にCD化した正式の復刻盤である。音質はSP復刻としては最良の部類。雑音も少ない方だろう。十年後に録音された、かの有名なリパッテイ/カラヤンのピアノ協奏曲の演奏よりは聴きやすいくらいである。
 すでに述べたように、クーレンカンプは独奏部に、オクタープ上げたり分散和音の音を置き換えたりなどのかなりの改訂を加え、更に第1楽章の一部には数十小節のカットがある。しかし、それは曲の印象を大幅に変えるものではない。演奏スタイルにも古めかしさは殆ど感じられない、むしろ何とも端正だなという印象。音程が凄くきれいである。
 むしろ、まさにこのクーレンカンプこそが現在たいていの奏者が採用している第3楽章の速いテンポを決めた張本人で、多かれ少なかれ今日の演奏家の多くはこの解釈の追従者だということがよくわかる点がおもしろいだろう。
 もとより現代の奏者の多くはクーレンカンプが置き換えた音を原譜どおりにしてもちゃんと同じように演奏できてしまう。前述のベルの演奏など驚異の超絶技巧を当たり前のようにサラリとこなして涼しい顔をしているわけである。
 カップリングのメンデルスゾーンも端正な名演です。それにしても時代をひとつ間違えると政府当局の意向というもので利用されざるを得なくなる「体制内」の芸術家というのはいつの時代にもいるものである。

8.ストルガルド(Vl.),セーゲルスタム盤は96年録音。すべてフィンランドの演奏家によるものである。シューマン自身の編曲によるチェロ協奏曲のバイオリン版がカップリングされている(管弦楽パートはオリジナルと同じのようだ。バイオリン版は他にクレメルのグラモフオン盤があるが、そちらは管弦楽パートがショスタコヴィッチの編曲のもの)。
 若手のストルガルドのバイオリンは、やや線が細いかもしれないが、柔和な表現力がある。セーゲルスタムの指揮もごくオーソドックスな解釈。オーケストラははじめて聴く団体だが水準だろう。問題の第3楽章は一応一般的な速めのスタイルだが、のびのびとレガートに弾いていて、私としては違和はない。
 チェロ協奏曲のバイオリン版も同様の演奏だが、チェロ奏者による魅力的な演奏に迫る味わいには今ひとつだろうか。

9.カントロフ(Vl.),クリヴィヌ盤は私が最初にCDで買ったこの曲である。
 カントロフのバイオリンはアーティキュレーションが明快で実に見事なものだ。問題なのはバックを務めるオーケストラの方。
 何か響きが妙に練れていないし、カントロフの芸風ととけ込んでもいないのである。第1楽章、この盤だけが冒頭の主題のリズムの長音を重付点二分音符というより三重付点二分音符と言う感じにぐーっと伸ばし、短い方の音を殆ど前打音のような処理で演奏している。ちょうどバロック音楽で古楽団体がやりがちなスタイルのようにも聞こえる。これがとことん徹底していればそれはそれで大変おもしろいのだが、まるで思いつきのようになされており、しかもその他の点では完全にロマン派の音なので何かひどく中途半端な印象を受ける。
 更にオーケストラの仕上げ自体が妙に雑なのだ。これは併緑されたより小編成のシューベルトのバイオリンと管弦楽のための協奏的作品の伴奏となると一転して水を得たような響きになるためによくわかる。このシューベルトの作品に関しては、カントロフ盤は恐らく現在でも一番の演奏であるかもしれない(クレメル盤も見事だが)。
 確かこのコンビはモーツァルトの協奏曲では名演を出している。グリヴィヌの側にまだロマン派音楽への不慣れがあったのかもしれない。

10.クレメル(Vl.),ムーティ盤は、アーノンクールとの新盤が出てみるといろんな意味で中途半端である。はっきり言ってミスマッチ。ムーティも、何か妙に通り一遍の伴奏指揮に過ぎない。単に通り一遍ならまだしも、第1楽章など駆り立てるように速いのである。トスカニーニ風? 今回紹介するすべての演奏の中でいちばん速い。アーノンクール盤では今度はすべての演奏の中でいちばん遅くなるのだからこの10年間の変動は大胆きわまりない。オーケストラのトウッテイの部分の速さと独奏バイオリンが前面に出る部分のテンポの遅さとの間の落差。さすがらムーティもそういう場面ではクレメルに仕切られてしまったのだろう。第2楽章は静寂な世界でやや伴奏はムード的だがこれはこれでかなり成功している。
 問題は終楽章! アーノンクール盤とは正反対にむしろ速めのグルーブにはいる。しかも主要主題は殆どスタッカート気味に短く切る歌い回し。本当によくこれだけ別の解釈をしたものだ。
 クレメルのバイオリンにはここでも精妙なアーティキュレーションの冴えはすでにある。コクと徹底性はアーノンクールとの演奏の方が熟成度は高いが。
 もとよりアーノンクールとの新盤と比較するからこの演奏が平凡に見えるだけで、ここに非凡なバイオリニストがいることには変わりがない。グレン・グールドもびっくりの解釈方針の変更そのものを含めて聴き比べてみる価値がある。
 アーノンクールとの演奏は何か極端でついていけず、スリムなこの演奏の方を採りたくなる人もいるに違いない。ただ、デジタル録音としては今や少し冴えない音かなとは思う。リマスタリングされればよみがえるかもしれないが。

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 以上、聴いてきてみて、この曲に関しては全くどうしようもない凡演がまだないことに気づいた。「ラウテンバッヒャー盤以外はいい演奏だ」などと意地悪なことを言いそうな人が少なからずいそうなことは承知している(笑)。それでも私はあの演奏がカワイイのだ。

次回はヴィーンの謝肉祭の道化Op.26 の予定です

 


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