1.私たちは、自分の感情と、日常の中で、どのようにつきあっているのか


    *そもそも、なぜ人は悩みはじめるのか

 いきなり大げさな表題を掲げましたが、皆さんに、少しふりかえってみてほしいのです。

 あなたは、昨日、友人と和気あいあいとおしゃぺりをした後、さよならを言って別れました。ですが、帰り道、ひとりになったとたんに、先ほどまでおしゃべりに熱中していた時の、少しハイになった気分が急に醒めてしまい、それどころか、何となく不快なのです。

 「後味が悪い」というのですか、妙に「疲労感」のようなものだけが残るというのですか、どうも、その人と会っていた時のことに思いを巡らすと、何かむしろすっきりしない感じの方がどんどん強くなってしまう。

 いろんな思いが脳裏を巡り始めます。

 「なるほど、和気あいあいとした楽しいひとときだった……一応は。でも、私は妙にはしゃぎすぎていた気もする。
 相手からみても私のはしゃぎようは不自然に思われなかったろうか。何か、本当に満ち足りたはしゃぎ方ではなかった。何か、退屈なのを無理矢理もり立てておもしろくしようとして、何かにせき立てられるようにして言葉を繰り出していた気がする。どこか、あの人と一緒にいて『間合いが持たなく』なるのを怖がっているみたい。あの人に受け入れてもらえているという実感がいまひとつない。
 ……いつも私はこうだ。そうやってはしゃいでいるうちに、何か相手の人の方から私から離れていく気すらする。かといって、人の輪の中で黙っていると、自分だけが取り残されて他の人はみんな仲良くなっていくように見える」。

 電車に乗って、彼女はさらに考えます。

 「どうして私はいつもこうなんだろう。結局自分に自信がない。他人に多くを求めすぎているのかもしれない。でも……」

 これではいつもの自己嫌悪を繰り返すばかりだと感じて、手持ちの雑誌を読み始めるのですが、活字が頭に入りません。読むことに没頭できないのです。

 家に帰って、夕食時にテレビを見ている間は少しは気が晴れました。昼間の友達と会っていた時のことも一度は脳裏を去ってしまいました。
 でも、テレビを切ったとたんに、妙な空しさと落ち込みと焦りのようなものに襲われたのです。
 少しお酒を飲み、音楽を聴きながら雑誌の続きを読みます。気分が少しハイになって、くつろいで雑誌を読んでいたのですが、しばらくして、明日までに、昼間友人に頼まれた資料を探し出す必要があることを思い出しました。
 すると、再び、昼間のことが頭を巡り始めました。

「私は本当はやりたくもないのに、そして、相手が言い出してもいないのに、自分から、資料を貸してあげるなどと言い出した」

……こうして彼女の自己嫌悪はまた始まります。

 一晩寝れば、そうしたことも一度は忘れるかもしれません。
 しかし、その後も、似たような対人関係の場にたつと、またもや同じような後味の悪さと自己嫌悪が生じてくるという悪循環を決して抜け出せないのでした。

 

   *「『気』になる」「『気』にする」ということ

 人は、悩みや自分の中の問題点を、「頭で」考察した結果、生み出すのではありません。何かの体験をした時、あるいはした後に、自分をすこやかな気分でいられなくする、言葉にならない違和感や不全感や不安や焦りのようなものが、自分の中にいつの間にか生じてきてしまっており、その漠としたモヤモヤを容易に払い除けられない時にはじめて、まるでかゆいところを掻かずにいられなくなるかのようにして「この原因は何か」などと悩み始めるのです。

 日本語の「気になる」とか「気にする」というのは、おもしろい言葉だと私は思います。厳密に言うと、「気になる」という時、そこでそのことを問題視している主体は、実は、その人の中の、理性的にものを考える「私」ではなくて、その人の中の「気」、すなわち、どこかから勝手に訴えかけてくる「何か説明のつかない」、モヤモヤと曖昧で漠然とした違和感不全感不安焦りなのです。
 ちょうど、自分は何かに集中したり、すべてを忘れてくつろぎたい時に、自分の中にいる、あるいは自分のすぐそばにいる「もうひとりの自分」が、こちらの都合などお構いなく、まるで赤ん坊が突然泣き叫ぶように、あるいはいくら振り払ってもじゃれついてくるペットのように、何かをせがむようにして、強情に何かを訴えてくるために、自分の方は集中したりくつろいだりできなくなるような状態です。
 つまり、「私」が「それは問題だ」と判断しているのではなく、「私の中の、正体不明の『もうひとりの<何か>』」が、「私」に向けて、「これじゃだめだ」と言うかのように強情に訴えてくる。だから「私」としても、私の中の「そいつ」の相手をせざるを得なくなるわけです。
 本当は、その人の主人は「私」ではないのです。勝手に押し寄せてくる、言葉では説明の付かない「何か」モヤモヤとしたものなのです。そのモヤモヤのことを「気」と呼ぶこともできるかもしれないことはすでに述べましたが、私の本当の主人は、その「気」の方かもしれません。「私」は「それ」に翻弄されるだけなのです。
 「私は……と感じる」といわずに、「私は……という気がする」という時、私の中の『気』が……だと訴えていると『私』は感じる」ということを述べているのです。

 そういうモヤモヤは、多少の「晴らし」をしようとしても、容易に払い除けられないことが少なくありません。いっときは払い除けられても、何かのきっかけで、またもや、以前と同じようなトーン感触の気分が突然襲ってきて、「また、『こんなふうな』感じでしかいられなくなる」のです。
 あるいは、いくらもっともそうな解釈分析をしたところで、「頭」の方はそれで納得しようとしても、「そのモヤモヤ」の方はすっきりしないまま相変わらず感じられ続けていることが少なくありません。
  まさにに落ちない」ということです。「私」のアタマは納得したつもりでも、身体の方には何か違和感がある。「腑」というのは「五臓六腑」の「腑」つまり、「内臓」です。たとえば、胃のあたりはまだ何かキュッと絞まったままだったり、胸のあたりには何か「つかえ」のようなものが残っていたり、「虫が好かない」ままだったりするわけです(私の中の『腹の虫』が違和感を訴えるわけですね)。

 多くの人は、このような、漠然とした身体感覚や気分からの理屈抜きの強い訴えかけを、何とか押さえつけたり、ごまかしたり、をそらし」たりにしない」ようにつとめながら、「アタマで割り切った」行動をとろうとしています。
 しかし、そのようにして中途半端にしか相手にしてもらえなかった身体や気分からの訴えは、一見こころの背景に沈みながらも、その人の中に沈殿し、その人の意識的に決断した行動の足を引っ張ったり、その人に理屈では割り切れない、自分でもとまどう行動をとらせたり、訳の分からない抑鬱や焦りや不安や空虚感の形を取ってその人を振り回したり、時には実際の身体の症状の形を取って苦しめたりするのです。

 これからここでみなさんにご紹介するフォーカシングとは、このような、私たちの中に生じてくる、漠然とした曖昧な身体や気分からの訴えを、通常よりも遙かに丁寧に受け止めることで、私たちの悩みやストレスに、真の解決を与えていくための技法なのです。

 

2.Clearing a Space……気掛かりの「棚卸し」


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