3.自分の中の「それ」と ”一緒にいられる” 関係づくり


   *取りあげる気掛かりや身体の感じを選ぶ

 気掛かりなことがらや身体感覚を一つずつ「棚卸し」してしまうclearing a spaceが終わったら、次に、そうやって並べ上げて脇に積み出した気掛かりや身体感覚の中から、取り敢えずこれから相手にしていくものをひとつ選びます。

 この際、どういう基準で選ぶのか?

 自分が取りあげてみたい気掛かりや身体感覚を意識的に選択してもフォーカシングがうまく行く場合もありますが、基本的には、「私」ではなくて、「気掛かり」や「身体感覚」そのものに問いかけ、自ら立候補してもらう方が、成果が上がりやすいと言えます。

 どういうことかといいますと、およそ次のような段取りを踏みます:

  1. 先ほど並べだした身体の感じや気掛かりな事柄にちょっと尋ねてあげてみて下さい。

        「今、取り敢えずまずは相手をして欲しいのはどれ(誰)かな」

      *目の前に、いろんな個性を持ちつつも、全体としては無口でシャイな、子供たちや動物たちが数名(数匹)並んでいるみたいなつもりになってみるのもいいでしょう。clearing a spaceの時にこちらの呼びかけに答えて現れ、取り敢えず「やあ」とこちらから挨拶してあげ、「詳しいことは後で聞くからそこらへんで待っててね」と約束してあげた、あの連中です。
     
             clearing a spaceの時に並べ上げた気掛かりの中の
                れかを忘れてしまったら?
                 あるいは、clearing a spaceの時点では並べ上げて
               いなかった気掛かりや身体感覚が新たに生じてきたら?

      その連中は、恐らく「誰かまず先生と一緒に舞台の上に立ちたい人!」などと呼びかけてももじもじしているばかりで、すぐに名乗りを上げるような図々しい奴は珍しいと思います。なぜなら、長年、「あなた」にまともに好意的に相手をしてもらったことはなく、いつもお説教を食らったり引きずり回されたりしていたばかりだったからです(たいていの人の、自分の中の曖昧な身体感覚や気分や気掛かりへの態度はそのようなものです)。あなたが急に優しい態度を示しても最初は信頼せず、もじもじするばかりかもしれません。
      
  2. 並べ出された気掛かりや身体感覚そのものの中から、特定の気掛かりや身体感覚が、「相手をして欲しい」ことを示すかのように身体感覚を通して応答を返してくるのをしばらく待ちましょう。
     この応答は「言葉で」返ってくるのではありません。「相手をして欲しい」気掛かりや感じそのものが、他のものよりも前面に少しずつ浮かび上がってきたり、より鮮明に生き生きと感じ始められたりするという形で反応してきます。

      *「誰か相手をして欲しい人は?」と、しばらく「連中(先ほど並べだした気掛かりや身体感覚)」の表情や態度を見ていると、言葉で名乗りを上げないまでも、ある「気配」が伝わってくるでしょう。
      モジモジと黙り込んでいるかに見えて、ほんとうはすごく相手をしてもらいたがっている表情を浮かべる奴とか、気がついてみると、じりじりと半歩ずつ前に進み出て来ている奴とか、そっぽを向きつつも時々視線を目配せしてくる奴とか。
      「感じ」や「気掛かり」そのものが、ある種のこちらへの「好意」のような、「うなづき」のような、あるいは「求め」のような、プラスの感覚を身体を通して反応して返してくるのが身体でビビッと感応して伝わってくるかるかと思うのです。
     恐らく、「気掛かりや感じそれ自身」の中からそうやって「進み出て」くる奴がはっきりと現れるまでには、十数秒から数十秒かかります。
     
     そうやって、連中(気掛かりや感じそのもの)自身が態度をはっきりさせる前に、「あなた」の方から、あなたの側だけの判断で一方的に選び出さない方がいいです。

     「ほら、あなたは『進路選択を前にした不安』でしょ? もう大学4年生になる日も近いんだから、当然重大問題よね」

    などと、「あなた」の方が決めつけないことです。

     実感それ自身に選ばせると、一見その時点の人生の中で些細に思われる気掛かりの方が、少なくともその時は、なぜか妙に強く相手をしてもらいたがっていることを感知できることがあります。そういう場合、まずはその気掛かりの方を先に相手にすることが、実は自分が普段から大問題と感じている課題の解決にも貢献する伏線にいつの間にかなることが多いものです。

    「フォーカシングをはじめるまでは、ずっと『進路の問題』をここで取りあげようと心に決めていた。でも、今は、そもそもフォーカシングを落ち着いた気持ちで進められず、妙に足が地に着かない感じの自分がいる。この、漠然とした「おちつかなさ」そのものの方が、今の実感としては、なぜか妙に強く自分に訴えてくるので、まずはこいつの相手をしよう」

    ……こういう具合でかまわないのです。

  3. 「相手をして欲しい」と前に進み出てきた特定の気掛かりや身体感覚を、フォーカシングの対象として取り敢えず選択することを、他の気掛かりや身体感覚が承諾してくれるかどうかを、それらの他の気掛かりや身体感覚それ自身に問いかけて、確認する。

      *「まずはこの『説明の付かない落ちつかなさ』君を相手にしてあげるのでいいかな?」と、他の気掛かりたちにも一応了解を取るのです。
     「あなた」の方が、それらの気掛かりや身体感覚の重要度に勝手に序列をつけたりせずに、気掛かりや感じそれ自身の選択に委ねる限り、選ばれなかった気掛かりや身体感覚が「納得してくれない」ことはそんなにはないと思います。
      もとより、この時点で別の気掛かりが選びなおされることも時にはあります。まるで、clearing a spaceで並べ出された気掛かりや身体感覚そのものが自発的にミーティングを開いて、「やはりここは『あいつ』に道を譲ってあげよう」と合議するというような感じで、自然と特定の気掛かりや身体感覚を前面に押し出して来るかのような印象を受けることもあるかもしれません。
      丁寧に、「取り敢えず誰を代表に送るか」の選抜のプロセスを身体感覚そのものに委ねる限り、実はそこで取り敢えず選ばれなかった他の気掛かりや身体感覚ともどこかで結びつくような気づきの展開が無理なくその後のフォーカシングのプロセスで生じるものです。

      実は、その人のそれぞれの気掛かりや身体感覚は、独立した別個の問題なのではなく、まるで星座(ユングのいう「布置」=constellation)のように互いにどこかで連関した、その時点でのその人の抱えた問題全体の幾つかの特定の側面が表に現れているものに過ぎないものです。その時点でその人の実感が相手をしやすいものが、無理のない最初の切り口になるというだけのことです。
     ジェンドリンの言葉を借りれば、フォーカシングを重ね、「体験課程のステップ」が進むうちに、他の気掛かりや身体感覚との連関も自然に統合されていくことが多いのです。


   *選ばれた気掛かりや身体の感じに、改めて友好的な挨拶をする(acknowleging)

  1.  上記のプロセスを経て、取り敢えず相手にする気掛かりや身体の感じが選ばれたら、その気掛かりや身体の感じに触れ直し、改めて「ああ、『これ』」だった」と確認します。


    これはあたかも、何か言いたげで、後で詳しく話を聞くと約束していた相手に、「ああ、あなただったね。お待たせしました。これからしばらくお相手しましょう」と、改めて挨拶をするようなものです。


    この際、その気掛かりや身体の感じの中に入ってしまう必要も、それについてあれこれ考察や分析をはじめる必要もありません。このことは、すでにclearing a spaceの項で一度述べたのと同様の理由でです。


  2. 身体の感じではなくて、気掛かりなことがらを選んでいる場合には、この時点で、その気掛かりなことがらをめぐって自分がどんな身体の感じでいるのかをここで改めて感じてみるのがいいでしょう。
     例えば、昨日のある友人と会っていた時、相手のいうことに何かすっきりしないものを感じて、それ以来もやもやが後を引いているとすれば、そういうモヤモヤが生じ始めた時の光景などを思い浮かべながら、その時自分がどんな居心地・ムードでいたのかを、身体の実感として呼び戻そうとしてみるのです。そして、その友人と別れた後、自分の中にずっと後を引いていた、あるスッキリしない気分そのものの感触・質感を呼び戻そうとしてみるのです。
     もちろん、その時とあなたの気分がかなり変わっていて、そっくりそのまま同じ居心地が今自分の中に蘇らせることができるわけではないことは少なくないでしょう。でも、その時どんな感じでいたのかの余韻・痕跡・残りかすのようなものならば、その時の実感それ自体よりも微弱にせよ、触れ直せるのではないかと思います(さもなければ、そのことについて、今もあなたが「気にし続ける」わけもないのです)。


  3. 身体の感じや、何かスッキリしない不全感などを、これから関わる対象として選んでいた場合には、
     
     「この感じは、自分がおかれた状況や生活の中の問題、存在のあり方などと、どこかで何か響き合い・感応して生じているという実感はあるかな」

    と身体に確認してみることが意味がある場合があります。


    この際、自分の身体の感じが、自分のどの気になることや状況と関係している気がするかを特定できる必要はありません何についてかはわからないけれども、自分の抱えた「何か」と関係ありそう……という、漠然とした実感が確認できれば十分です。

    例えば、

    「この、胸のあたりの何か『つかえる』ような感じは、どうも自分が生活の中で漠然と感じている、うまくいかなさ加減とどこかでつながっているような……」

    などといったものでいいのです。

    もとより、そのような身体の感じが自分の問題や存在のあり方と響き会っている実感が特に得られず、なぜそこにそんな感じがあるのか見当がつかないというままで以下のプロセスを進めても、特に何の問題もありません。



  *感じと「一緒にいられる」関係づくり

 次に、

「では、その感じのそば(となり)に、しばらく『一緒にいて』あげることはできそうかな」

と自分の内側に問いかけます。

 ここでいう、「一緒にいる」ということは、その感じに浸りきってしまうということではありません
 感じの「中に入って」しまう必要はありません。むしろ、感じの外側、その感じと関わろうと思えば関われるくらいの距離にいてあけるということです。自分の側もその感じと一緒にいるのに抵抗や不安を感じないくらいの、ちょうどいい距離・間合いを見いだすということなのです。

 この、感じと「一緒にいる」ということを、まるでアベックが仲むつまじくベンチで隣に腰掛けているぐらいの密接な距離感が求められているようにとらえられてしまうことがあります。
 もし、あなたが、自分の中の「その」感じと、そのような間近な関係で一緒にいることに全く無理を感じないばかりか、「あなた」のほうも、「感じ」の方も(、そのような近接した間合いで「共にいる」ことを全く自然に感じるようならば、それでも一向かまいません。
 しかし、自分の中の、解決が難しい気掛かりやと関わるような身体の感じというのは、多くの場合、その感じと最初から無理のない友好的な関係を結ぶことが困難なものです。

 あなたにとって、何か苦手そうな人物と同じ部屋にいなければならない場面のことを想像してみて下さい。

 あなたはその人物に近寄られるのも、声をかけられるのも嫌かもしれません。しかし、その人物が机の斜め向こうの端の方に座っていても、何も言葉を掛け合う必要がなく、黙ってすわっていればいい(相手に注意を払っていないふりをしてもいい)というのでしたら、(その人のことが多少は「気になる」かもしれませんが)、「一緒にいる」ことはできることも少なくないでしょうでしょう(こういう場合、相手の方から声をかけてくることはそんなにはありませんし)。

 それすら耐えられないとしても、例えば、幾つもテーブルの間の通り道を挟んだ、部屋の反対側の隅の席に、相手の姿がちらちらと見えるぐらいの関係ならば、まあ、何とか「一緒にいられる」こともあるでしょう。あるいは、相手と自分との間に、観葉植物の植え込みが並んでいていて、その向こうに相手の姿がちらつくぐらいならば平気かもしれません。

 そのようにして、「感じ」そのものとの距離感を、自分にとって無理のない形に調整していいのです。
 「感じ」をまっすぐに見つめなければならないこともありません。視線を交わさず、「はす向かい」にいてもらうというのでもいいのです。間に障壁や垣根のようなものを想定してもいいでしょう。

 九州大学の田嶌誠一先生が開発した「壺イメージ療法」では、そのような気掛かりや関わりづらい情動を入れておくのにぴったりの壺や箱を自由に想像してもらい、その壺を自分から無理を感じない距離の所においてもらうということをします。壺にどのようなふたをするかとか、その壺を更に箱に入れて封印するとか、土に埋めるとか、クライエントがいろんな工夫をすることがむしろ奨励されます。そして、その壺の中に入らなくても、その壺の外側から中に入れたものを感じることも許されるのです(田嶌誠一「イメージ体験の心理学」講談社現代新書 参照)

 人は、他人と関わるときに、その相手と話ができねばならないという強迫観念に陥りがちです。「間が持たない」ことを恐れ、絶えず話題を探そうとします。人は、相手との間の沈黙を、それだけで何か罪悪のように感じがちです。
 しかし、もし、相手と口をきく必要がなく、ともかく一緒に座っていればいい、それでも決して相手に非礼にはならないという前提に立つならば、かなり気楽になれるのではないでしょうか。
 カップルの関係の理想とは「互いに何の口もきかず、ただ一緒にいて、ボーッとしていられることだ」という意見を以前ある雑誌で読んで、なるほどと思ったことがあります。

 ウィニコットというイギリスの精神分析的対象関係論の代表的セラピストは、養育者と幼児は、互いに同じ空間を共有していながらも、互いに相手のことに注意を払わず、自分の関心(母親なら家事かもしれないし、子供の方は目の前のオモチャかもしれない)に没頭していられる時間を共有できる十分な体験が持てる時期が必要だと述べています。
 もちろん、これは相手に無関心なままということではありません。時々、相手の気配を感じたり、相手の様子をうかがったりはするでしょう。そして、相手に何か異変があったり、相手から何か訴えかけがあればれば、すぐにアプローチするかもしれません。しかし、それ以外の多くの瞬間は、自分の世界に浸っているという「共にいる」あり方です。
 ウイニコットは、このような、養育者と幼児の「共にいる」ことができる能力のことを、(多分に逆説的な言い方ですが)、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」と名付けました。これは、「相手と一緒にいられて、しかもひとりの世界に浸っていられる」ということです。
 この「ひとりでいられる」能力が欠けていたら、人は、人と共に居る時、絶えずも他人が自分をどう思っているか、相手に自分が受けとめられているか否かにセンサーを研ぎ澄ますばかりとなり、「自分自身」を保ちつつ他者と関わるだけの自我が形成できなくなります。
 もとより、このようにして、心理的に「ひとりでいる」ことを互いに許容でき、相手が自分を「ひとりでいさせてくれない」心配を感じずにすむというためには、その前提として、ある種の信頼関係の絆がすでに形成されていてはじめて可能なことということにはなるでしょう。
 (ウィニコット 『情緒発達の精神分析理論』牛島定信訳 岩崎学術出版社 邦訳pp.21-31)

 ……実は、ここまで、他人との関係の上で「何も語らず、ただ一緒にいる」ということについて述べてきたことは、実は、自分自身の中に生じてきた「感じ」と「自分」との関わりについても言えることなのです。
 人は、自分の中に生じてきた感情を「分析」したり、「説明」したり、「理解」したり、他者に言葉で「表現」したり、「解消」したりできねばならないという強迫にとらわれがちです。
 しかし、これらは、曖昧な漠然とした未分化な「感じ」そのものが暗黙のうちに内包する何がが自然と生成変化し、自ずから形を成していく、体験過程の有機的なプロセスをむしろ阻害するものに過ぎません。
 ちょうど種が発芽して目や葉をのばしていく様を見守るかのように、あるいはおなかの中に胎児を「かかえ」ながら、その赤ちゃんが自然と成長していずれこの世に生まれ落ちるまでを見守れるように、まずは自分の中の「感じ」そのものの「ただそばに居て、見守れる」スタンスが大事なのです。

*自分の中の感じと「一緒にいられない」時には

 しかし、およそ悩みを抱えこんでいる人とは、まさに、自分の中の感じと「一緒にいる」ことに困難を感じて、自分ではどうにもならなくなっている人たちであることが多いのです。

 自分の感じと何とかうまく距離を取って一緒にいようとしても、どうしても不快感が強すぎたり、苦しすぎるということはよくあるでしょう。そういう時に、無理してその感じと「一緒に居続けよう」とするのはよくありません
 ところが、トレーナーに命じられるままに無理をしてしまう人が少なくないので、表情や語調が何か苦しそうではないかとかに、トレーナー側の方から気を配る必要があります。

 対策としては2つあります。

自分の中の、「その」感じがまだ広がってきていない影響圏の外側にある、ニュートラルな感じの部分を見つけ、自分の意識の中心の居場所をそのニュートラルな感じの空間の側の中においてしまう

というのがひとつの対策です。

 自分の中の情動に巻き込まれている時には、ひとは、まるで自分とその情動の輪郭が一つに溶け合ってしまい、「自分=情動」になっているかのように体験しがちなものです。
 しかし、多くの場合、実は、人は自分の感情を、自分の全身すみずみで体験しているわけではありません。自分の身体の中のある特定の箇所に、その感情の核(コア)、あるいは「吹き出し口」となる部分があり、「そこ」から身体のかなりの部分を「汚染」されてはいるものの、丁寧に自分の内側全体をサーチしていけば、実はその感情が広がってきていない「余白の領域」があることに、多くの場合、気付けるものなのです。

  それはちょうど、突然降り出した大雨の中、ずぶぬれになりかかった時、小さな家の軒先に、ほんのわずかな、雨をしのげるスペースを見つけたようなものかもしれません。その中に入ってしまうと、多少は雨のしぶきがかかるかもしれませんが、全身ずぶぬれの時の絶望感や無力感よりは、遙かにほっとして思いをあなたは味わえるかもしれません。そして、その激しく降る雨の様子を、「こりゃ凄いなあ」などと、眺めて、観察していられる心の余裕すら取り戻せるかもしれません。

 自分の身体の中に、自分の感情からフリーな領域を一度見つけ、そのニュートラルな感覚の方を味わっていると、自分全体を巻き込んでいるかに見えた「感じ」が、次第に、その「コア」となる部分へと局在化される方向へとある程度収縮し、代わって、ニュートラルな感じの領域が広がり、先ほどまでよりは、その感じを自分の中で「かかえていやすく」なり、少し気持ちの余裕を取り戻せることがしばしばあります。


  1. 「その」感じと「一緒にいたくない」という気持ちの存在をあっさりと認めてあげて(acknowledging)、その、「<その感じと一緒にいたくない>という感じ」一緒にいてあげようとする。

     この対策のことは、フォーカシングをする際には是非心のどこかに留めておいて下さい

     すでに述べたように、「その感じと一緒にいてあげたら」といわれても、そのことがなかなかできようもないことこそが、悩んでいる人の特徴です。無理して、その感じと一緒にいることに「耐えようとする」ようなあり方は、実に好ましくありません。

     ところが、トレーナーに命じられるままに、無理にでもその感じと一緒にいようと「がんばってしまう」人が少なくないのです。ここで求められている、感じと「一緒にいられる」関係というのは、感じとの間に、ある最低限の余裕感のある共存の仕方が求められているのです。トレーナーは、フォーカサーの表情や語調に、苦しそうな様や、無理をしている面があらわれてないかどうか、注意を払い続ける必要があります。

     そして、その感じと一緒にいることがつらい場合には、むしろ、自分の中に、その感じと向かい合うことに苦痛を感じている「もうひとりの自分」がいることをあっさりと認めてあげて、その「感じと一緒にいることに苦痛を感じている自分」と一緒にいてあげられるかどうか試してみる方向へと転換する方が遙かに生産的安全なのです。

     そして、その「当初の感じと<一緒にいる>ことに苦痛を感じている感じ」そのものを当面相手としていく形で、ここ以降の段取りを進めていけばいいのです。

4.自分自身の声を聴く


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